「水俣病問題は終っていない」を実感させた二つの事案
去る5月31日は、新潟水俣病公式確認から60年の日であったが、その直前に、水俣病の原因理解について信じられない出来事が2件報告された。
1件は、水俣病問題の地元とも言える熊本県宇城市の行政が起こした事案。新年度からの使用に向けて市が作成して市内全世帯に配布した宇城市総合カレンダーに「ハンセン病・水俣病などの感染症を正しく知っていますか?」と記載されていた問題である。
2件目は、家庭教師のトライが、オンラインで提供する映像学習サービスで、水俣病について「この病気が恐ろしいのは、遺伝してしまうことです」と解説していた問題。10年間に7万回、視聴されていた。
もちろん、水俣病は感染症でもなければ遺伝する病気でもない。水俣病には、九州中部不知火海周辺で発生したいわゆる水俣病と、新潟県阿賀野川流域で発生した新潟水俣病がある。前者はチッソ水俣工場、後者は昭和電工鹿瀬工場の排水に含まれていたメチル水銀を、魚介類を通して摂取したことによる中毒性の神経系疾患である。
いずれの工場も戦前から、水銀を含む排水を無処理で海や川に流していた。魚介類の被害のみでなく人の被害も戦前から発生していたが、病名の由来となった水俣市で公式確認されたのは1956年5月1日であった。
当初は原因不明の奇病とされ、伝染病や遺伝性疾患との見方が広がる一方、有機アミン説、旧日本海軍投棄爆薬説、農薬説(新潟水俣病)などの説明がなされた。中には明らかに、企業を守るため意図的に流布された似非(えせ)科学的見解もあった。
中でも伝染病や遺伝性疾患との考えは患者に対する差別・偏見に結びつき、今日も癒えない大きな傷跡を患者の心と地域社会に残している。
患者たちからは「買物に行ってもお金を手渡しでは受け取ってもらえずに箸(はし)やザルで受け取られたり、家の前を鼻つまんで通られたりした」「あそこの娘は親が水俣病と認定されたので離婚されて、子ども二人かかえて戻って来た」などの体験談が数限りなく証言されている(注1)。
加えて、水俣は「チッソの城下町」と言われ、「チッソと水俣は運命共同体」とされた地域で、「城主」であるチッソに「弓引く(訴訟などを起こす)」市民はなお一層排除と憎悪の対象となった。
ある患者は「裁判の終わって家に帰ったら、近くん衆からいじめられるもいじめられる。俺だけじゃなか、子どももぞ」と語っている。
さらに、水俣地域で患者の中心であった漁民は明治以後に天草地域などから渡って来た「流れ(よそ者)」と呼ばれる移住者であり、水俣病の問題が起こる以前から官と民、会社とムラ、「地つき」と「流れ」といった身分階層があったと言われる。それと病への偏見がからみ合うことによって「構造的かつ重層的な差別と排除が進行した」との見方もある。
水俣病は、自らの利潤追求のためには市民の健康に意を介さなかった民間企業によって引き起こされた犯罪被害と言える(注2)。被害が取り返しのつかないほど拡大し、未認定患者の問題(注3)などが今日でも未解決となっている責任は、国と自治体
にもある。熊本県は、まだ原因が特定されていなかった57年に食品衛生法による水俣湾産魚介類の販売禁止方針をいったん固めながらも、厚生省の指導により撤回している。
また59年に、厚生省食品衛生調査会水俣食中毒特別部会が「主因をなすものはある種の有機水銀化合物である」との答申を行った際には、当時通産大臣であった池田勇人(後の首相)により答申は棚上げされ、部会は、答申を出した翌々日に解散となっている。
以後も、水俣病問題の歴史の中で「せめてこの時にきちんとした対策をしていれば……」との思いを禁じ得ない分岐点は一つや二つではない。そのことは、環境省の公式文書にも記されている(注4)。
来年5月には水俣病公式確認から70年を迎える。私たちはいつになったらこの問題を本当に解決することができるのだろうか?
(注1)二つの事案の後、東京で暮らす患者家族の娘が、夫の家族から「テレビで水俣病は遺伝するて言われとるけん、ふたりば別れさせよう」と言われたとの話を、水俣市で患者支援などの活動を行っている相思社の永野三智さんが報告している。
(注2)一例として、59年12月にチッソは、自らの責任を認めない形で患者家庭互助会といわゆる「見舞金契約」を結ぶが、その後の裁判過程で、この時点でチッソは、社内(チッソ水俣病院)での実験により水俣病の原因が自社の工場排水であることを把握して
おり、判決で「(見舞金契約は)公序良俗に反する」と断罪されている。
(注3)国と自治体は、「チッソをつぶしてしまえば賠償金の支払いができなくなる」との口実のもと認定基準を厳しく設定して未認定患者を多数生み出した。そのため未認定患者は「ニセ患者」との偏見と差別を受けることとなった。
(注4)環境省編・発行『水俣病の教訓と日本の水銀対策』(2013年)
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