「復興」とは何か
「復興」とは何か。自然災害後の生活再建やまちづくりを考える場で、長年議論されてきたテーマだ。
1995年の阪神・淡路大震災で、兵庫県の貝原俊民知事(当時)が打ち出した「創造的復興」という言葉は、その後、多くの被災地で使われている。「街を元の姿に戻すだけでなく、より良い姿にする」とか、国連の文書で示された「Build Back Better(より良い復興)」と同じ意味で使われていることも多いが、貝原氏が言葉に込めた意味はそれよりも深い。近代都市文明の脆弱性を乗り越える新しい社会のあり方や、社会の質的な転換、いわばパラダイムシフトまでを視野に入れていた。
ただ、30年前、私を含めてその真意を理解していた人は少ないと思う。被災者は日々の生活に精いっぱいで、未来の社会のあり方など考えている余裕はない。多くの被災者の願いは「元の暮らしを取り戻したい」ということに尽きる。さらに当時の政治家、官僚には、創造的復興という名のもとに阪神・淡路地域が〝焼け太り〟することを許さない、という強い意識があったといわれる。
2024年1月に発生した能登半島地震では、石川県が「創造的復興プラン」という名の復興計画を発表した。30年もたって同じ言葉を使い回すのか、と驚いたが、それほど日本に根付いた言葉ともいえるのだろう。11年の東日本大震災後の復興議論でも、熊本地震後に熊本県が策定した「平成28年熊本地震からの復旧・復興プラン」でも、創造的復興という言葉は使われている。
阪神・淡路大震災は、「ボランティア元年」といわれる市民活動の広がり、災害関連死を死者として認定する仕組み、被災者支援の新たな法律の整備など、さまざまな動きを生み出した。しかし、バブル時代を引きずった過大な再開発などは、「復興過程が災害になっている」とも指摘され、貝原氏が目指した「社会の質的転換」は遠かった。
2万人以上の死者・行方不明者を出した東日本大震災でさえ、日本社会を転換する災害にはなり得なかった。地震、津波、原発事故で多くの人々が日常を奪われ、今なお全国に漂流している状況でありながら、日本社会全体として問題を深刻に受け止めているようには見えない。相変わらず、東京一極集中が進み、原発の安全神話は生き続けている。
一方で、阪神・淡路から30年たった今、私たちの社会は「質的に転換せざるを得ない」状況になっているとも感じる。世界を見れば、時代が巻き戻ったように独裁者が力を持ち、激しい分断が生まれ、戦禍が拡大している。日本国内でも、人口減少、少子高齢化、地球温暖化の影響がはっきりと目に見える形で表れている。社会のさまざまな現場は外国人材の力なしには立ち行かないし、縮み続ける自治体も地域の担い手となる力を失っている。そして、IT(情報技術)の進化、AI(人工知能)の台頭は、良くも悪くも明らかに社会を質的に変化させている。
そんな社会状況で発生した能登半島地震・豪雨災害は、社会の質的変化を目指す復興というより、質的変化に直面する中での新たな復興像を生み出さねばならないのだろう。もはや「人口流出を食い止める」というような方向性や、被災地域の再生だけに目を向ける復興ではなく、人口流出の加速や日本社会全体の変質を前提として復興を考える必要がある。
冒頭の「復興とは何か」という問いに立ち返れば、重視すべきは、キラキラと輝く壮大な「被災地の復興」を描くことではなく、「一人ひとりの人間としての復興」を原点に置くことだろう。被災地の復興のために、一人ひとりの人生を合わせていくのでは、過去の失敗を繰り返すことになる。
被災地に住み続ける人も、被災地を離れる(離れざるを得ない)人も、被災地に関わる「関係人口」も含め、一人ひとりの人間の復興が総体として新たな復興の姿を生み出していく。10年、20年と続く長い復興過程で変化する暮らしや社会のありように合わせ、「復興とは」の問いに対する答えも見直していかねばならない。つまり、復興の定義というものは常に変化し続ける。これから日本を襲うであろう巨大災害でも、そんな議論が必要になるだろうし、私たちはその心づもりをしておかなければならないと思う。
2025.12
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編集委員 磯辺 康子
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