「ボランティアは偽善か?」に心を揺さぶられる
筆者は大阪ボランティア協会(以下、ボラ協)のアソシエーター(注)として「ウォロ」のほか、ボラ協会員誌「キャンバス・ニュース」の記事も書いている。2026年2・3月号では、オンラインセミナー「『ボランティア論』を大学でどう教えるか?」(25年12月8日開催)を取材した。参加者は、大学などでボランティア論を担当する教員やNPO関係者ら。プログラムはボラ協が25年1月に発行した『新・学生のためのボランティア論』の編者、赤澤清孝・川中大輔・野尻紀恵3氏の実践事例紹介と参加者同士の交流からなり、大学での授業の仕方などある意味、実務的な内容であった。が、それは学生たちに考えさせることをねらいとするものであった。
(注)大阪ボランティア協会に所属する具体的な事業の担い手の総称で、ボランティアと事務局職員の双方を指す。
ボランティアの三原則は「自発性・主体性」「公益性・連帯性」「無償性・非営利性」である。講師は自らの授業で学生に、「勤め先の社長にたのまれ」たり、「就活に有利なガクチカのため」であったりする社会貢献活動が「ボランティアと言えるのか」、また、日常生活では仕事や学業をサボりがちな若者が被災地などの困っている人を見て「やむにやまれぬ」と活動に取り組む純粋な気持ちは「どこから生まれてくるのか」と問いかける。一方で、「ボランティアは偽善だ」をどう思うかと、心に揺さぶりをかける。
「偽善」を感じるのは、「お金や時間に余裕のある人しかできない」「三原則を守っても本当に支援が必要な人に目が届かない」「問題や社会矛盾を糊塗(こと)するだけにならないか」といった疑問が浮かぶからであろうと筆者は考える。
三原則のすぐわきには大きな落とし穴もある。例えば、ナショナリズムを鼓舞するプロパガンダに扇動された人々が「自らの意思」と思い込み、公益(国防)のため〝自発的に無償の〟犠牲を払って戦争に参加するといったことも起こり得るのだ。そもそもボランティアの語源の一つは「義勇兵」である。
民主主義も「偽善」の衣をかぶっている。19世紀、民主主義の思想をリードした英国やフランスは一方で、アフリカやアジアを侵略し植民地を広げていた。米国には奴隷制度があり、南北戦争を経ても人種差別が事実上続いた。近代産業社会がもたらす「豊かさ」を背景に、普通選挙が実施され、労働者の権利や「ゆりかごから墓場まで」といった社会福祉も整備される一方で、軍事力が強化され、20世紀前半は戦争と経済恐慌が繰り返された。
スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットは、『大衆の反逆』(原著1930年刊、佐々木孝訳、岩波文庫、2020)で、普通選挙により「大衆が社会的権力の前面に躍り出」(63ページ)て、「自分たちがカフェーで話題にしたことを他に押しつけ、それを法としての力を付与する権利があると信じ」(同73ページ)るようになり、「寛大で民主主義的な霊感から発した平等への権利は、熱望や理想ではなくなり、欲求や無意識の前提へと変化」(同81ページ)する「超デモクラシー」の出現を警告した。イタリアのファシスト政権(1922年組閣)を意識したこの警告は、結果的に「大衆の一代表者に公権力を握られ、すべての反対勢力を消滅させてしまうほど強力になった」(116ページ)、ドイツのナチス政権出現(34年)を予見したのである。
第2次世界大戦の災禍を経て、先進資本主義国は民主主義の理性を取り戻したかに見えた。だが、近年、民主主義の「偽善」が再び頭を持ち上げている。そこに内在する経済競争と拡大を「善きもの」とする価値観が、格差拡大、戦争、環境破壊をもたらしている。英国の経済学者J・M・ケインズは30年の『孫たちの経済的可能性』(山形浩生訳)というエッセーで、100年後以降の社会を展望し、「ひたすら富を追求する人を尊敬する義務はなくなる。便利なものより善良なものを立派に活用する人々を尊ぶようになる」と予言した。ケインズが美徳とみた人間本来の生き方は、文化を愛し無償で働くボランティアではないのか。産業はそれを支える側に回るべきだと考えてみてはどうだろうか?
2026.04
「ボランティアは偽善か?」に心を揺さぶられる
編集委員 神野 武美
2026.02
万博ボランティア レガシーを形に
編集委員 永井 美佳