ボラ協のオピニオン―V時評―

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市民社会の創造とボランティア協会の役割 ~新しい年に向けての雑感~

大阪ボランティア協会理事長岡本 榮一

 1996年が暮れ、あわただしく97年がはじまった。
 ある知人が、ある講演会で市民社会について話したところ、私の住んでいるのは農村です。村に住んでいると市民になれないのですか?などといった質問が飛びだしたという。ことほどさように「市民社会」という概念は日本では新しい。
 「市民社会」というのは、国家や行政と個人との中間領域として存在する自律した社会を指すとか、このような中間領域に、多様な価値放と活動が保証され促進されるような社会であるとか、権力の支配や命令や管理なしに、個々人が秩序を形成しながら運動や活動や事業ができる自由な状態、といったことを意味しよう。
 国会でのNPO法案の審議に見るように、予想以上にボランティア活動を巡る社会的状況の変化は激しい。だが、21世紀に向けての、ボランティア活動の大目標がこの「市民社会」の創造にあることは間違いない。このような時、協会にとって大事なことは、変えてはならない原則と、時代が求めている柔軟な原則を見極めることであろう。

 まず、変えてはならない原則について最近の話から。
 大阪ボランティア協会は何を原則(理念)に運営しているのかという質問が増えていることである。理由はどうもボランティアセンターの活力の問題らしく、質問はどちらかといえば社協に関係する行政職の人からが多い。 そこで、協会を尋ねてください、新聞社なみに散らかしていますが、と言うことにしている。しかし食い下がる人には、(1)行政からの独立と民間性の遂行、(2)運営へのボランティア参加をあげることにしている。 こういった質問の背景には「行政」の相対化、つまり強かった行政の後退、小さな政府、分権化の問題、規制緩和やNPO問題等の大きなうねりと関係がある。
 「活力ある市民社会とは何か」が21世紀には問われてくる。もちろんボランティアセンターについても必至である。ボランティアセンターは誰でも建てられる、しかし誰でも創れない。協会の変えてはならない原則とは一口でいえば「民間性」の創造ということであろう。

 つぎに柔軟な原則について。
 最近読んだ本にこんな言葉が。「意味もなく殺されていく苦しみ、食べるものがなくて死んでいく苦しみ、そこから普遍性が引き出せる。人間が普遍的に避けたいと思うものに向かって戦っている人たちが「市民」なのだという定義をすれば、「市民社会」というのは運動体なのだ(要約)」(「世界」1月号) かつて、協会では事業体か運動体かという議論を激しくした時があった。いつの時代でも、この二つは緊張関係を持つ。だが、運動体であることを忘れた時、協会は死ぬ。阪神大震災では協会が生きていることを見事に実証した。時代の悩みが、時代の困難が何であるかを読むことということになろうが、果敢に、そして柔軟にそれへの挑戦をすることが求められていよう。重い課題であるが「市民社会」というのは運動を内包していることも事実である。

市民活動情報誌『月刊ボランティア』1997年1・2月号 (通巻322号)

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