年初来、多くのボランティアが参加した日本海での重油回収活動も、ようやく山を超えたようだ。
阪神・淡路大震災から二年。地道な日常活動が中心となった被災地では、一時の熱気がおさまる中、「あれは一過性のボランティアブームだった」といった見方もあった。
しかし、元来、「放っておけない」「自分に出来ることがある」と感じさせる具体的なテーマと向き合えば、多くの人々がボランタリーな行動を起こすものだ。のべ14万人(読売新聞調べ)というボランティアの数は、そのことを如実に物語っている。
そして今回もまた、「全体」に拘束されない「私」発の活動であるボランティアの特性が活きた。「行こう」という意志さえあれば動き出せるボランティアは、被害の全体把握や前例との比較などに手を取られる行政よりも、格段に機動的対応が容易だ。
「ボランティアは行政の穴埋めに留まらず、行政に出来ないことが出来る存在」であることが改めて証明された。
しかし、その一方で苦い教訓としなければならない事態も少なくなかった。重油回収作業の過程で地元漁民4人、ボランティア1人の計5人の犠牲者が出てしまった。また2月中旬には地元漁民からボランティアに回収作業の中止要請がなされる事件も起こった。
なぜ、このようなことが起こってしまったのだろうか。
ここで注目しなければならないのは、地元漁民とボランティアとの立場の違いだ。
確かに両者は「きれいな海を取り戻そう」という同じ志を持っていたし、ゆえに一緒になって作業にあたった。
しかし両者には重大な違いがあった。一方は選べ、他方は選べなかったということだ。
ボランティアは、行くか行かぬかも、いつ出向き、いつ帰るかも、基本的に「自由」に選ぶことができる。
しかし地元の人たちは、この「自由」がきわめて小さかった。汚されたのは目の前の海。それは生計の基盤となる場だ。重油回収の成否は暮らしに直結する。地元住民は、この現実から逃げられない立場に追い込まれた。
その上、「よそ様が寒い中で作業しているのに、地元の人間が休むわけにはいかない」という考え方が地域に強く、高齢を押して無理する人たちが続出した。
同じように回収作業にあたるとはいえ、ボランティアと地元漁民の間には、その自由さにおいて、両極とも言える立場の差があったのだ。
このような時、ボランティアは、しばしば落し穴につかまってしまう。「私」発ゆえに、「他」、つまり地元漁民が自分とは大きく立場が異なることを見落としてしまう。四人の地元犠牲者の中に、先の意味での無理が重なった人はいなかっただろうか。
また「私」発ゆえに、「全体」の中での位置を見失うと重油だけしか目に入らなくなり、“被災者である地元住民の負担で”安価な宿舎の提供を受けても疑問を感じない。
「私」発の取り組みであることは、ボランティア活動の長所であるとともに短所ともなりかねない。このことは、あらゆるボランティア活動で共通する側面だ。重油災害活動でのトラブルは、ボランティア全体にとって教訓とすべきことであろう。
市民活動情報誌『月刊ボランティア』1997年5月号 (通巻325号)
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