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「犯人は少年」の衝撃 恨みを育んだ「義務」の教育

(漫)

 「犯人は少年だった!」。6月28日、神戸の土師淳君殺害事件の容疑者として十四歳の少年が逮捕されたことは、私たちに大きな衝撃を与えた。
 犯人が少年ということになると、その背景に大人社会の歪みを見ないわけにはいかない。しかも被害者の首を切断し衆目にさらすという異常さと、「普通の中学生だった」と言う周囲の評価との落差。そこには安易に「特殊事例」と片付けられない問題の広がりと深刻さを感じさせる。
 この犯罪をどう受け止めるべきなのか。動機など不明な点は少なくないが、現在の教育システムにひそむ“陰”にまで踏み込んだ解明が必要なことは確かだろう。
 新聞社に送り付けられた犯行声明文で「義務教育への復讐」という表現が使われ、また「教師に何度も殴られた」との供述がなされているという。被害者の頭部を自らの通う学校の校門に置いた行為も含め、少年に学校への深い恨みの感情があったことは間違いない。

 ここで気になるのは「義務教育」というもののとらえ方だ。
 実はこの「義務」の対象は、戦前と戦後で百八十度違ったものとなっている。
 戦前の教育制度では「義務教育」とはまさに「就学する義務」であった。しかし戦後、教育は義務から権利へと位置付け直された。つまり子ども達には、日本国憲法第二十六条によって教育を受ける「権利」があるとされ、学校に行かねばならない「義務」があるという規定とはなっていないのだ。
 では、なぜ今も義務教育というのか。それは、子どもの「権利」を保障するため、保護者に子どもの教育機会を保障する(就学させる)義務があり、また自治体に教育設備や教員を確保する義務があるということだ。
 保護者に「就学させる義務」がある以上、結局は子どもに「就学する義務」があるのと変わらないと考えやすい。しかし法律は、子どもの就学権利を保障するための義務という形で構成されているのである。このことにこだわるのは、少年が「義務」の教育、つまり「逃げられない」「他に代わる世界のない」場として学校を受け止め、しかもそのシステムに恨みを育てていったと思えるからだ。
 犯行声明文で「学校への復讐」とはせずに、わざわざ「義務教育への復讐」としている。そこに「義務」として課せられる場に対する息苦しさ、閉塞感が感じられる。
 もっと自由で伸びやかな世界の中で、学び、気づき、理解を深める営みができないものだろうか。

 その一つの試みとして、自発的なボランティア活動体験を通じた学習、「ボランティァ学習」がある。動機は自由。好奇心や仲間探しでもかまわない。ともかく自主的に活動に参加してみる。するとバイト料のもらえぬ行為なのに、なぜか元気が出てきたりする。「恨み」ではなく、自信を得る機会がたくさんあるからだ。
 その鍵は、やはり自発的な参加。こうした元気や自信の根源にあるのは、立場の異なる人だちとの間で同じ思いが共有される時だ。そのような出会いは、強制され心が閉じた中では起こりえない。
 「義務」ではない学習の世界を広げる。このことも、この事件が私たちに突きつけた課題の一つだと思う。

市民活動情報誌『月刊ボランティア』1997年7・8月号 (通巻327号)

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