「『もう少し感謝の気持ちを表してもらわないと、やる気が出ない』と言われるボランティアの方がいて戸惑っているんです」。
ある市で、ボランティア活動の推進にあたる行政担当者との懇談会に参加した時のこと。公式の会合が終わり席を立とうとした時、参加者の一人が近づいてきて、こう尋ねてこられた。
「『私たちは無償で頑張っているんだから、行政の方も感謝の集いぐらい開きなさいよ』とおっしゃるんです。もちろんボランティアの皆さんの努力を評価しています。でも、それぞれ自主的になさって いることでしょう。感謝されないなら、やる気がでないというのは、どうも釈然としないんですよ」。
「感謝の集い」を自ら要求するとは、随分はっきりモノを言う人もいるものだと驚いた。しかしここまで露骨でなくとも、この「良いことをしているのだから評価されて当然だ」とする主張は決して異端的なものではないだろう。それどころか「感謝の集い」は現に各地で開かれている。表彰状や感謝状の授与、参加者全員に記念テレカなどの記念品…。特に秋はこの種の大会が多くなる時期だ。
さて、この質問への回答。「自発的にしてるということは『嫌だったらやめてもいい』ということですよね。わざわざ攻撃的に言う必要はないでしょうけれど、このことはちゃんと伝えないといけないと思います。『しんどいけれど、ほめてもらえるならやってあげる』という人が増えてしまうのは良くないことだと思いますよ」。
「嫌だったらやめてもいい」という表現に相手は少しドキンとされたようだが、自分の戸惑いに共感する人間がいたことでホッとされてもいた。
実はこの「嫌だったら…」のフレーズは、私のオリジナルではない。現在は知的障害児施設の施設長をされている元大阪ボランティア協会・事務局次長、佐藤宣三郎さんが、よくおっしゃっていた言葉だ。
学生ボランティアとして協会に出入りしていた私が、活動が忙しくて、つい愚痴を言ってしまう。そんな時に佐藤さんから、きつーいこの一言。
「励ましてくれても良さそうなものを、なんて嫌味なことを言われるのだ!」 最初は反発も感じたが、いや、これはまさにボランティア活動の核となる原理を言っておられたのだと今は思う。
「嫌だったら…」の問いかけは、まず、なぜ自分がボランティア活動をするのかを問うことになる。
「目の前の深刻な社会問題を解決しなければならないじゃないですか」と返しても、「でも、なぜ君がそれをするんだ」と問い返される。「社会正義実現のため」といった借り物の理屈ではなく、自分の内発的な動機ー義憤といったものに加えて「仲間を得たい」といった気持ちもからみあう「やる気の正体」を見つめ直すことになる。
そして「嫌だったら…」に対して「やはり活動を続けたい」という時、その理由は「嫌じゃないから」、つまり「好きだから」ということになる。
この「好きでやっていることだ」という発想こそは、元気に活動できる秘訣の一つだ。
というのも「好きだから」ではない発想、たとえば「正しいことだから」という姿勢になると、自分と同様に頑張らない仲間を「正しくない」と否定し出すし、異なるスタイルの活動や異なる主張をする人たちを切り捨てていく。活動は独善化しやすく、結局、孤立し、閉じこもっていきやすい。
一方「好きだから」という姿勢は違いを認めていくし、しかも開放的だ。人それぞれに好きなものがあるが自分はこれが好きだ、となる。ペースの違うメンバーを認めていけるし、活動を楽しむ姿勢にもつながる。そして「嫌だったら…」の問いかけが、「嫌になんかならない」活動の魅力を気付かせる。
それに、本当にボランティア活動は「やめてもよい」ことなのだ。自発的な活動である以上、するもしないも自由。「せねばならない」と肩に力を入れ過ぎることは、行政に比してボランティア活動の長所だとされる柔軟性や創造性を奪ってしまいがちだ。
「嫌だったらやめてもいいんだよ」とは、頑張っている人を励ますエールとなる言葉なのだ。
市民活動情報誌『月刊ボランティア』1997年10月号 (通巻329号)
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