ボラ協のオピニオン―V時評―

寄付する・会員になる

ボラ協を知る

ボランティアする・募る

学ぶ・深める

「もう、三周、まわっています…」

(漫)

 「もう、三周、まわっています…」
 当協会が二月三日から開講した第二十期「ボランティア・コーディネーター講座」の受講者交流会の席で、受講者の一人がポツリとこうもらした。
 「三周」? その意味は、こういうことだ。
 当日、ボランティア活動やNPO活動を行政や企業と比較して、このような講義があった。
 自発的な取り組みには「ここまですれば良い」という基準がない。企業なら損が出ない範囲で、行政なら法律が定める範囲で、という基準があり、その範囲でサービスが提供される。しかしボランティア活動やNPO活動には、こうした普遍的な基準は ない。つまり「どこまでするか」はそれぞれが自由に決められるが、これは「どこまでするか」を、私たちが自ら決めねばならないことをも意味する。
 そこで相手のしんどさに気づき見て見ぬふりができない人ほど、「ほうってはおけない」となりがちだ。それは結局、活動に無理を生じさせやすい。
 しかし、この無理が重なれば、当然、疲れてしまう。そこで、やむなく休んだり活動のペースを下げたりするのだが、そこで「だからボランティアは当てにならない」といった声が聞こえてくる。
 そこで、たとえば「私の力にも限界があって…」と釈明することもできるのだが、その声が現実と格闘する当事者からの訴えであったりすると「確かにもっと頑張らねば」と思い直すことになる。
 こうして、さらに無理をする。しかし、そこでまた疲れ、しかし休むと周囲からは不信や不満をぶつけられ、そうして疲れ果ててしまい…。
 いわば「不信と疲労の悪循環」。活動に真剣に取り組む人ほど、責任感の強い人ほど、こうした事態に自らを追い込みやすい。そして冒頭の受講者は、この「悪循環」を三周まわったと話したわけだ。
 小説の題名ではないが「惜しみなく愛は奪う」ともいえるこの状況は、自発的な取り組みに特有のものだ。それは「孤軍奮闘という形の消耗戦」に迷い込みやすく、結局、疲れ果てて倒れてしまったりグループを解散に追い込む場合さえ少なくない。
 つまり私たちは問題を自分たち「だけ」で背負いこんではならない。「悪循環」の輪を何周もまわり続ける活動からの脱皮。つまり多様な人々に仲間を広げていく努力や工夫、それに企業や行政とのパートナーシップを築ける力をつけることが必要だ。
 実際、この「孤軍奮闘を回避するスキルアップ」のための研修が、近年、積極的に開催されるようになってきた。協会のコーディネーター講座で「不信と疲労の悪循環」にふれたコマのタイトルも『非営利組織のマーケティング戦略』。企業の世界でつちかわれてきた「マーケティング」の体系を市民活動の世界にも応用しようというものだ。そこでは支援者の心をつかむには、たとえば「作ったものを売る」のではなく「売れるものを作る」の姿勢が必要だといった研修がなされたのだが、このように積極的に支援者を獲得していくことで「孤軍奮闘」を回避する研修が、各地で活発に開講されている。
 もっとも、確かにこのスキルアップは重要な課題なのだが、真の課題はそれ以前にあるように思う。それは、他者と協働することの面倒さを超える「感性」を高めることだ。人は「しんどい」時ほど、かえって閉じてしまいがちだ。元来、他者と協力することにはわずらわしさがつきまとう。支援を要請する立場となる時は、なおさらだ。そこで「できる範囲で気軽に活動したい」と「自給自足」の自由さを大切にする人もいる。それが悪くはないのだが、そうして出来ることには、当然、限界がある。 結局、支援を受ける際のわずらわしさを超えて活動の輪を広げるには、活動への強い意欲とともに、何よりも周囲の協力を求めてまでしようという自らの活動に「自信」をもっていることが必要なのだろう。自分の活動に「自信」があれば、他者との関わりの中で自らの主体性が奪われてしまうと恐れない。ちょうど甲殻動物と脊椎動物の違いのように、固い殻で自らを守る甲殻動物は脱皮しか成長の方法はないが、脊椎動物では太りもし痩せもする。活動に背骨のような「自信」をもつこと。オープンな活動を進める鍵は、そこにあると思う。

市民活動情報誌『月刊ボランティア』1998年3月号   (通巻333号)

ボラ協のオピニオン―V時評―

  • 2024.02

    新聞報道を「市民目線」で再構築しよう

    編集委員 神野 武美

  • 2024.02

    万博ボランティア、わたしたちはどう向き合い生かすか

    編集委員 永井 美佳