ボラ協のオピニオン―V時評―

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おまかせ文化考

大阪ボランティア協会理事長岡本 榮一

 21世紀まであと少し。自己反省も含め「おまかせ文化」ということを考えてみたい。おまかせは、もたれあい、パターナリズム(温情=依存の関係)、寄らば大樹の陰、癒着といったことにも通ずる。
 まず、大きなところでは国家と地方自治体との関係から。20世紀はまぎれもなく国家の世紀だった。国家の名のために何百万人もがそれに殉じた。国家パターナリズムである。戦後はずっと、地方自治体などは「三割自治」などと言われてきたのがそれだ。「陳情」という言葉にもそれがあらわされている。それが、21世紀はどうやら国家の縮小化がおこりそうである。地方分権などはその例である。
 中間のところでは、行政と民間団体との関係。今でも「民間」とは名だけの、行政丸抱えのものは数えきれぬ。それも補助金や委託費が多ければ、行政からの出向という「天下り」も公然化した。おんぶにだっこである。ところが、最近「下請け」とか「措置」という上下関係が問い直されはじめた。福祉構造改革等での社会福祉法人などの見直しはその一例である。
 小さいところでは親子関係。ある中学生のグループに、「君たち、毎朝おかあさんに起こしてもらっているの?」と聞くと、10人中9人が親に起こしてもらっていると答えた。私の推測では、大学生になっても二割程度は毎朝親に起こしてもらっているかも知れない。依存促進教育だ。「生きる力」をつけようと2002年からは「教育改革」が始まる。
 最後に我が告白。単身赴任がはじまった頃に、こんなことがあった。私が留守の間に妻がスーパーから食料をあれこれと買いこんで、「冷蔵庫に〇〇と〇〇と〇〇を入れておきましたよ、適当に食べてくださいね」といって帰っていった。
 当の本人は「うん、ありがとう」位のナマ返事でその時はすましたが、しばらく経って、その食料がいたみだし、大量を捨ててしまうハメになったことがあった。(今はそんなことはないが!)
 いずれにしても、本人不在というか「おまかせ主義」がどんなことを招くか、という例証である。
 以上見たように、早晩、このおまかせの精神文化やパターナリズムの問い直しや崩壊が起こりそうだ。否、起こらなければならないと思う。
 「市民社会」というのは、どうやらこのような、おまかせ文化やパターナリズムの崩壊と裏腹の関係にありそうである。それらと置き変わるものが「自立」「自律」「自治」だ。自治体は本来の自治を獲得し、民間団体=NPOは自立(律)と多様性をとり戻し、個人は主体的に、誇りをもって生きることが始まらねばならぬ。
 「ホスピタリティ(もてなし)」ということについて、永六輔さんがこんな話を紹介している(『大学ごっこ』)。日本の家庭にホームステイしたアメリカの若者の不満話だ。
 「日本の家庭に招かれると、きまってお茶がでる。なぜ最初に何を飲みたいのかを聞かないのか」というものである。
 このホスピタリティと関係のある言葉には、ホテル、ホスピタル(病院)、ホスピス(末期患者のための施設)等がある。いずれも、お客さんや患者を大事にし、もてなすことの意味から来ている。
 ところが、永さんが言わんとしていることはホスピタリティ、つまりもてなしの大前提として「相手に選ばせる」ということが大事だと。「生き方を相手に選ばせた上で対応することを本来、ホスピタリティというんです。癌の告知や残りの生き方の選択までも含めて・・・(要約)」と永さんは言う。
 これには教えられた。日本人には「相手に対して、選ぶことを迫る」そんな習慣が乏しい。主体性を問いかける精神文化が育っていないのだ。「おまかせの精神文化」にどっぷりつかってきた。
 かつては医者が絶対であるから、それに従うべきだというような考えが支配的だった。だから最近になって「インフォームドコンセント(説明同意)」などということがあらためて問題となる、そんな社会である。ボランティアの世界でもひょっとしたら同じことがあるかも?
 21世紀のおかあさん、中学生ぐらいになったら子どもを起こすのはやめよう。自分で起きたらほめてやろう。21世紀のだんなさん、奥さんまかせを止め、時には自ら市場にでかけ、台所に立とう。

市民活動情報誌『月刊ボランティア』1999年1・2月号 (通巻342号)

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