「これでようやく人間として生きていける」「人間を取り戻した」… テレビから聞こえてくる「人間」という言葉に、これほど胸を射られたことはない。
去る五月十一日、熊本地裁でハンセン病国家賠償訴訟の初の判決が出された。「らい予防法」(九六年廃止)による国立ハンセン病療養所への強制隔離政策で人権侵害を受けたとする入所者ら元患者の主張を受け、政府と国会の責任を認めた画期的な判決である。この勝訴の報を受け、インタビューに答えた元患者が絞るように発したのが、冒頭の言葉である。
ハンセン病はらい菌による感染症で、感染力はきわめて弱く、遺伝もしない。しかし顔や手足の変形という外見に症状が現れることや、遺伝病との誤解から、患者は激しい差別と偏見に苦しめられてきた。
このハンセン病に劇的によく効くプロミンという薬(抗生物質)がアメリカで開発されたのが、第二次大戦中のことである。日本でも四七年には国内使用が始まっていた。そして、五二年にはWH0が治療薬の効果を高く評価し、隔離の見直しを提言している。ところが、なんとその翌年、入所者団体の反対を押し切って、患者の隔離を柱とする「らい予防法」(新法)が制定されたのである。
今回の判決では、世界的に在宅治療が主流となった六十年以降も、隔離政策をとり続けたことを「明確な憲法違反だ」とし、さらに差別や偏見を取り除く措置を取らなかった「立法上の不作為」を含めて厚生大臣と国会の過失を認めたのである。
実は、冒頭のインタビューに胸を射られた理由は、激しく人権を侵害されてきた人の言葉の重みと、もう一つある。それは、市民としての自らの「不作為」に対してである。
学生時代、全国で十三か所ある国立ハンセン病療養所の一つである長島愛生園でのワークキャンプに参加したことがある。誰から誘われたわけでもなく、主催グループに知り合いがいたわけでもなかったので、自分なりにハンセン病のことについては、何らかの課題を感じていたのだろう。
真夏の一週間、炎天下でのワークはきつかった。汗とコールタールでどろどろになりながらも、でも、同年代の仲間との共同作業は楽しかった。入所している方と話をする機会もあった。それなりに差別の歴史や深刻さを肌で感じた。しかし、残念ながら、具体的に「らい予防法」の問題性やその廃止に向けた運動には出会わないままだった。そしてその後、何もしなかった。他の大多数の参加者も同じだっただろう。
ボランティア活動には二段階の出会いがある。あるいは、二段階の「始まり」があるように思う。最初は、まず活動の場や人との出会いである。そしてその次に、そこにある「問題」、自分が向い合わねばならない「問題」と出会う。言葉を換えれば、まずとにかく一歩を踏み出す(対象に近づく)始まりがあり、そして次に、課題を引き受けていく始まりがある。
二段階めの出会いや始まりは、もちろん人によって時間がかかったり、あるいは二段階目から始まる場合もあり、一様ではない。しかし、二段階目の出会いや始まりをどれだけ多くの市民が経験していくのかが、実際に社会を変えていく力となる。
現在、ボランティア体験やワークキャンプは全国いたるところであふれんばかりに計画されているが、その体験は、果たしてこの第二段階の出会いや始まりにつながるものだろうか。そこまで見通した計画や企画がなされているのだろうか。課題に気づいたり、触れたりするための一歩と、気づいてそれを引き受けていく一歩へ。ボランティア推進に関わる関係者は、改めてそのつながりを考える時期に来ているように思われる。
十八日、人気絶頂の小泉首相も了承し、政府は福岡高裁に控訴する方針を固めた。事の深刻さに配慮し、控訴手続きに合わせて和解に向けた救済策の検討にも入ったという。もちろん、これからの健やかな生活を保障するための特別な年金・介護制度や社会復帰支援策拡充などの救済策は重要だろう。しかし、冒頭の「人間として」という叫びは、和解では解決しない。侵害された人権は、国が正式に責任を認め、謝罪することでしか回復しない。今回、国が控訴するなら、それは新たな人権侵害とさえいえるだろう。
控訴を断念させるために、何ができるか。政府同様、これほどまでにひどい人権侵害に不作為だった市民も問われている。
(「ハンセン病・国家賠償請求訴訟を支援する会」では、控訴を断念させる行動への参加を呼びかけている。ただし、控訴期限は五月二十五日なので、本誌発行時には、その結果が確定している。)
市民活動情報誌『月刊ボランティア』2001年6月号 (通巻366号)
2024.12
人口減少社会の災害復興―中越の被災地に学ぶこと
編集委員 磯辺 康子
2024.12
追悼 牧口一二さん 播磨靖夫さん
編集委員 早瀬 昇