「田中真紀子外務大臣と外務省官僚との確執が続く中、「事務方」なる言葉が急に脚光を集めている。ここで特に外相がこの言葉を使う時は「自分(=政治家)の判断に従って、その事務を担う存在」といった意味合いが強い。
日本の官僚は、専門的な知識を身に付け継続的に日常的な業務を取り仕切ることで、事実上、極めて大きな影響力を持ってきた。しかし元来、選挙を通じて主権者の付託を受ける議員が主導的に政策を立案実行してこそ民主主義の社会と言える。そこで官僚の独走を抑えるため、「単に事務を受け持つ存在」との意味合いを込めて、あえて「事務方」という表現が使われているようだ。
実際、「単なる事務」といった表現が使われることは少なくない。記録、整理、会計、印刷、丁合わせ、書類の発送、問い合わせへの受け答え…。事務とは、こうした作業の総体だ。単調で創造性を欠く作業というイメージが強い。基本的に「裏方」の立場にたつ地味な作業だし、丁寧にさえすれば誰でも出来ることと見られることさえある。
しかし、先日、ある会合で、この「事務」の大切さを示す言葉を教えてもらった。
その言葉とは、『運動とは事務なり』。女性参政権獲得運動をはじめとする各種の市民運動を進められた市川房江さんの言葉だという。
市民運動のプロとも言える市川さんの言葉だけに、そこに重い響きを感じる。簡潔な表現で、運動の、そして事務の本質を言い当てている。
「運動」というと、デモ行進などの街頭行動や集会、演説など華々しい取り組みに目がいきがちだ。しかし、運動は、先にあげたような地味な「事務」の積み重ねなしには成立し得ない。
たとえば会議での発言は、議事録を作成することによって、欠席者や閲覧者も含めた人々に共有されるものになり、また次の会議へのステップとなる。その会議の案内状を発送する段階でどれだけ議論の背景を説明し論点を整理できているか、また配布する資料を事前にどれだけきちんとまとめておけるかで、会議の到達点は大きく変わる。
日々の正確な会計処理がなければ支援者に安心して会費や寄付金などを託してもらえなくなる。会費の納入記録がいい加減で、二重に会費を依頼するなどといった失態を起こしてしまうと、信用はがた落ちだ。
補助金・助成金なども「事務力」がものをいう。申請書が簡潔で要点を押さえた文章でまとめられていないと、仮に良い内容の企画であっても、選からもれてしまう。
「事務」という作業は、運動を、市民活動を土台で支えるものだと言える。
もっとも、人々が多様な形で関わる市民活動では、この事務作業をメンバー全員で分担することは難しい。そこで市民活動では、一般に「事務局」と呼ばれる作業チームを作ることが多い。
強力な事務局態勢を確立できれば、先にあげた事務作業をスムーズに遂行できる。そこで、市民活動が成長してくると、非常勤のボランティアだけで事務局を構成するのではなく、事務局に専従スタッフを確保し、日常的に事務に取り組める態勢を整えるようになる。こうなると専従化によって専門化も進めやすくなり、活動は大きくレベルアップする。
ただし、強力な事務局には隘路もある。事務局主導で活動が進み、一般の会員やボランティアの立場が相対的に低下してしまいやすいことだ。
その上、事務局が日々の活動に追われ、新たな事業に挑戦する意欲が低下すると、かえって活動を停滞させてしまう場合さえないわけではない。
こうした事態を防ぐには、活動への市民の共感を信じ、ボランティアとして活動や組織運営に参加できるよう組織を開き、事務局自身はファシリテーター役になるといった工夫も必要だろう。この場合、事務局に集まる情報をボランティアに詳しく伝えることも新たな役割となる。
専従職員を確保することは人件費という固定費を支出に加えることになり、財政的には大きな負担となる。非営利の取り組みである市民活動では、人件費をまかなう収入の確保はなかなかの難問だ。実際、専従職員が低賃金や長時間の勤務など厳しい条件の中で活動に取り組む場合が少なくない。
一方、ボランティアで事務局を担う場合も、常勤で関われない分、ストレスはさらに深くなることも多いとも言える。
しかし「運動とは事務なり」なのだ。日常の事務が活動の土台になるとの自負を失わず、仲間の頑張りを引き出すファシリテーターとして活動を開くかなめとなるのが、市民活動の「事務方」なのだと思う。
市民活動情報誌『月刊ボランティア』2001年7・8月号 (通巻367号)
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