ボラ協のオピニオン―V時評―

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愛して叱る ―田代正美さんが遺したもの

編集委員早瀬 昇

 五月十二日、田代正美さんが五十五歳の若さで亡くなられた。
 田代さんは、一九九一年に経済団体連合会(経団連)に新設された社会貢献部の初代・社会貢献課長として、草創期にあった企業の社会貢献活動の具体化をリードするとともに、市民活動団体と企業の協働関係づくりに奔走した人だ。九六年の経済広報センター出向後も、特定非営利活動促進法(NPO法)の制定や日本NPOセンター発足に大きな役割を果たした。また、ピーター・ドラッカーの著書を数多く翻訳し、一九九一年に出版された『非営利組織の経営』(ダイヤモンド社)は市民活動関係者にとって必読の書と言われている。
 財界の総本山・経団連の職員という立場ではあったが、大組織の威を借りたごり押しなどは、まったくなかった。ただし、市民活動の未来に深い期待を寄せていた分、私たちに厳しく迫った方であった。

 「感謝されてもいいはずなのに、なんで私が怒られることになるんですか」。田代さんから、こんな電話がかかってきたのは、一九九五年二月末のことだった。
 阪神・淡路大震災で市民団体への活動資材や人材の斡旋にあたった田代さんは、ある企業から携帯電話六百台の提供を受け、これを「一カ月間の通信費は経団連で持ちます。一カ月たったら回収します」との約束で、被災地で活動するNPOに配った。これは後に田代さんが「私の誇りは、この六百台をすべて回収したことです。これは私の誇りであると同時にNPOの誇りでもあると思います。一台の紛失もありませんでした」と回顧する話になるのだが、実は一団体だけトラブルが起こった。
 「経団連は被災地の状況がわかっていない」と回収に応じない団体が出たのだ。田代さんは「長期戦になるんでしょ。ならば携帯電話のようなコストの高い物では持ちません。NTTが固定電話を引き始めたから移ってもらいたい。その費用は持つから携帯を返してほしい」と説得したそうだが、携帯電話の便利さを知ったその団体が「経団連は我々の活動を妨害するのか」と言ったことから、冒頭の電話となったのだ。
 団体の独善性に怒り心頭だったわけだが、こういった場合に「善意で活動しているのだし…」などといった形で安易に受け入れることは決してしなかった。

 こうした姿勢は、企業の社会貢献活動に関する以下の発言にも表れている。
 「企業の社会貢献担当者は、自分のクビをかけて支援先を決めて寄付をするんですよ。もし寄付をした団体がつぶれでもしたら、どうなると思います。『あの金は、どこに行ったんだ!? みんなが汗水たらして生み出した会社の金じゃないか』ということになる。寄付をもらって『ごっつぁんです』では困るんですよ」
 市民活動団体から経団連に支援の要請がある際に、大阪ボランティア協会は特に西日本の市民活動団体の照会をよく受けた。提供する情報の裏づけを詳しく求められ、その厳密さに半ばあきれた時に言われたのが、この言葉だった。
 市民活動では、時に「駄目で元々」「失敗を恐れては何もできない」といったことが言われる。これはこれで一方の真実だ。
 しかし、ひとたび他者の支援を仰ぐと、それに伴う責任が発生する。支援者の立場をふまえた責任への自覚を促すことで、時に趣味的な活動と揶揄された状態からの脱皮を求めたのが先の発言だった。

 ただし、「危ない橋は渡らない」人ではなかった。田代さんの部下であった田中康文さんによると、震災時に外国人の所在を調べ救援する団体を支援するかどうか迷い、田代さんに相談に行った際、「不法滞在の人を救援しているわけですよね…。ちょっと、どうですかね…」と消極的に話を振ったところ、「不法滞在と言うな! 確かに超過滞在であれば法律違反と言えるわけで、その人たちを経団連が支援はできない。ただし、その人たちを支援している団体であれば何の問題もない! 誰かに何か言われたらそう答えろ。直ちに支援だ!」と指示されたという。田中さんは「あの時、『彼の下ならいろいろ踏み出せるな』と感じて嬉しかったことを思い出します」と語っている。
 法律上の「作為あるいは不作為の罪」を持ち出し、「不作為も罪になるんだ。臆せずにやれ!」と田中さんが叱咤激励されたことも数知れないという。実際、社会貢献部創設の二カ月後に起こった雲仙普賢岳の火砕流事故を皮切りに、現場に出向き、現実と格闘する姿勢は徹底していた。

 それまで企業関係者が市民団体に関わる場合、次の二つのタイプの人が多かった。
 一つは市民活動関係者を寄付に頼る「タカリ」的な存在だと毛嫌いしたり世界の異なる存在とみなすなど、まったく理解や対話をしようとしないタイプ。もう一方は活動の大変さに理解を示し、あるいは企業とは異なる世界があることを認め、積極的に支援して下さるタイプだ。そしてもちろん、ありがたいのは後者だ…と思ってきた。
 しかし、田代さんは違った。市民活動の可能性を信じつつも簡単に現状を受け入れず、「叱る」とも言える迫り方をされ続けた。
 もちろん批判ばかりではなかった。「応援する市民の会」の会議が、毎晩、遅くまで続くことに業を煮やした田代さんが「責任者はあなたなんだから、あなたが決めて皆に伝えれば済むことだ」と言われた際に、「自ら納得し、自らの創意が生かされてこそ、人は自発的に活動するのです。ボランティアが核にいる団体の組織原理は企業と違います」と反論。するとその後は、NPOと企業の協働では「効率性と共感」のバランスが重要だと語られるようになった。
 とはいえ、やはり「叱られる」ことが多かった。感情的に怒りをぶつけるのではなく、愛するがゆえに「叱る」。活動に取り組む人々の思いを受け止めつつも、社会を構成する一員として一般に説明のつく行動をとるよう、強く求めた人だった。
 得がたい指南役を失ってしまった。ご冥福をお祈りしたい。

市民活動情報誌『Volo(ウォロ)』2004年7・8月号 (通巻397号)

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