ボラ協のオピニオン―V時評―

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阪神・淡路大震災から十年

編集委員磯辺 康子

 「ボランティア元年」の言葉を生んだ阪神・淡路大震災から、十年が過ぎようとしている。
 すべてを奪われた被災者の無力感と救援に駆けつけた人々の高揚感が入り混じった震災直後の街の空気を、今も時々思い起こす。あの日を境に、私の中では何かが変わった。周囲にも、人生観や価値観の変化を口にする人は多い。震災を機に生まれた新たな法や制度もある。それでも今、十年の月日が流れた被災地を歩くとき、「何が変わったのか」と考え込んでしまうのはなぜだろうか。
 神戸に住み、被災地の取材を続けてきた。家という家が崩れ、倒れたビルから炎が上がり、その様子を呆然と見つめるしかなかった夜明け。横になる場所もなく、だれもがただじっと座っていた小学校の避難所。給水車の前で、順番を待ち続けていた被災者の長い列。自然の破壊力の前で、あまりにも無力な人間の存在を思い知らされた。災害によって失うものの大きさを、日々身をもって感じた。
 そんな状況のなかで、私たちに生きる力を与えたのは、地域の人々の助け合いであり、全国から駆けつけたボランティアであり、世界中から寄せられた募金や応援のメッセージだった。失ったものの大きさに打ちのめされる一方で、バブルに浮かれて疲弊したこの国が変わるかもしれないという一筋の光を見た気がした。
 破壊され尽くした街の中にいながら、未来への希望ともいうべき不思議な感覚があった。阪神高速神戸線が撤去され、目前に広がる青い空を見たとき、その感覚が自分の中に広がったことを今でもよく覚えている。被災地では実際、神戸線の地下化を研究者らが真剣に議論し、提言もした。
 しかし、そうした希望は急速にしぼんでいった。「民」の力が被災地を支えた混乱期を過ぎると、国や地方自治体は何も変わっていないという事実がはっきりと見えてきた。復興は、あくまでも既存の制度の中で進められた。住民が避難生活の混乱の中にあった震災二カ月後、再開発や区画整理というまちづくりの重大な計画が一方的に決められた。高速道路は元通りに復旧し、多くの市民が疑問を抱く神戸空港も、何事もなかったように建設が進んだ。
 注目を集めたボランティアにいたっては、行政のできない部分を「補完」する存在として、いわば「便利使い」される傾向が強まってきたのではないかとさえ思う。「参画」や「協働」という美しい言葉で表現してはいるが、行政側の意識はコスト削減のための「活用」。災害時のボランティア活動が当たり前になったことは喜ぶべき変化かもしれないが、震災から月日が経つにつれ違和感が膨らむ。
 確かに街は復興した。真新しい家が建ち並び、観光客が行き交う。しかし、莫大な税金を投入して再開発が進められた地域で、林立する高層ビルを見上げるとき、「これは被災地の人々が望んだ復興の姿だったのだろうか」という疑問がいつも頭をよぎる。日々の取材の中でも、私と同じような疑問を抱く人に数多く出会う。
 この十年、かつて住んだ街に戻りたいと願いながら、仮設住宅や復興住宅で多くの人が亡くなっていった。仮設住宅の中でだれにも看取られずに亡くなった、いわゆる「孤独死」は二百三十三人。復興住宅でも、分かっているだけで三百人を超える。孤独死に限らず、あるいは仮設や復興住宅に限らず、元の街に思いをはせながら亡くなっていった人は膨大な数にのぼるだろう。被災地を遠く離れた場所で、自ら命を絶った人もいる。
 こんな復興の姿を、私たちは思い描いていなかったはずだ。
 災害というのはそういうふうに過酷なものだ、といわれるかもしれない。けれども、この十年を振り返るとき、「天災」という言葉では決して片付けることができない理不尽な死があまりにも多い。「災害とはそんなものだ」で済ませていては、阪神・淡路と同じ過ちがまた繰り返される。
 震災十年目の二〇〇四年は、相次ぐ台風に加え、新潟県中越地震が起きた。
 取材に入った新潟では、阪神・淡路の「失敗」が生かされている部分もあった。例えば、コミュニティー維持への配慮。仮設住宅や復興住宅に入居する際、抽選という方法が取られたために人間関係がばらばらになり、孤独死という事態を生んだ阪神・淡路の教訓から、新潟では、集落ごとに仮設住宅に入ることが基本方針となった。
 一方で、十年前と何ら変わらない現実も数多くあった。被災者になかなか届かない水や食料。「まさか地震が起きるなんて」と話す自治体職員。十年前の被災地の光景をもう一度見ているような錯覚にとらわれた。
 新潟では、「都市型」の阪神・淡路とはまったく異なる「山間部型」の災害の姿も見えた。地すべりによる被害の大きさは言うまでもなく、特徴的だったのは「車中死」という思わぬ死の多発だった。災害は一つひとつ違う。災害が異なれば、死者の姿も違う。そんな当たり前の事実を、阪神・淡路から十年目の地震で私たちは突きつけられた。
 ボランティア活動の現場も、阪神・淡路のときとは違っていた。外部の人間に頼らず、強固な地域共同体を築いてきた被災地の人々は、ボランティアという見知らぬ人間に警戒感を示した。そのなかで、ボランティアは被災者のニーズをどう見極め、どう動くのか。阪神・淡路のときには見えなかった課題に、多くのボランティアが直面しているように見えた。
 新潟の被災地は、ようやく緊急の段階をくぐり抜けたばかりで、復興への道のりは長く続く。全国の台風被災地も今なお、生活再建の苦しみの中にある。
 今後の復興過程では、阪神・淡路では見えなかった課題が次々に出てくるだろう。阪神・淡路の「失敗」を見てきた立場からいえば、被災者が孤独に陥り、希望を失い、理不尽に命が奪われていくという事態だけは生まないでほしいと願う。
 そして、震災から十一年目を歩み出す私たちは、生き残った者の責任として、失敗から学び、新たな社会のありようを問い続けていかねばならない。六千四百三十三人もの人が亡くなり、その後も多くの命が奪われ続けるという現実に向き合うとき、私たちに「風化」はあり得ないと思う。

市民活動情報誌『Volo(ウォロ)』2005年1・2月号 (通巻402号)

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