ボラ協のオピニオン―V時評―

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市民としての判断 ~JR西日本脱線事故から

編集委員筒井 のり子

 漫画によくこんな場面が出てくる。
 「入社試験や重要な学校行事に遅刻した主人公。みんなに非難されるし、当然、試験にも落ちる。しかし、本人は言い訳もせず、ひょうひょうとしている。その後、ひょんなことから主人公が、実は交通事故に遭った人を助けていたとか、池にはまった幼児を助けていたといった“事情”が明らかになる。みんな(特に、いずれ恋愛関係への発展が予測される登場人物)の主人公を見る目が変わる…」といった展開だ。
 これは、たいてい、主人公の性格づけをしていく初期の段階で使われる。すなわち、「世間の常識や組織のしがらみを超越した、カッコイイ人物」を表すわかりやすいエピソードというわけだ。

 先月、JR西日本で一〇七人もの犠牲者を出す痛ましい脱線事故があった。この事故発生の背景や対応の仕方をめぐって、JR西日本へのさまざまな批判が噴出している。無理な過密ダイヤ編成、事故防止への投資の怠り、ミスを犯した職員への再教育(日勤教育)の問題など、一般にはあまり知られていなかった組織の問題が一挙に明らかになった。
 そうした中で、直接の事故原因とは別に、私たちを大いに驚かせたことがあった。それは、事故後の社員たちの行動についてである。事故発生の当日にボウリング大会や宴会を開いていた車掌区、ゴルフコンペをしていたところがあったという。
 また、脱線した電車の四両目と六両目に乗り合わせていた二人の運転士が、事故現場で救助活動に加わらず、そのまま職場へ向ったというのである(上司に電話連絡した上で)。先の漫画の主人公なら、迷わず、たとえ上司の指示に逆らってでも、事故現場での救助作業に参加しただろう。

 では、自分ならどうしたか? おそらく、多くの人が頭の中で自分の行動をシミュレーションしたに違いない。「自分が仕事に遅れることで、多くの人に迷惑をかけるような場合だと…」「上司の指示に逆らってまでは…」など、両運転士の行動を善しとはしないものの、より具体的な場面を想像すると迷いが生じるという人も多いのではないだろうか。
 この点について、AERA二〇〇五年五月二十三日号で、ネットを通じて読者七〇〇人に実施されたアンケートの結果が紹介されていた。興味深いのは、二人の運転士の「立場」に対して「理解できる」と回答した人が七割、一方「行動」については「許せない」とした人が、同じく七割いたということだ。アンケート回答者の背景は紹介されていないので不明だが、おそらく何らかの組織に勤務している人が多いものと思われる。「上司の指示を受けて、という立場はわかるが、救助活動に加わらず職場に向ったのは許せない」という大変微妙な心理がうかがえる。
 すると、次に向き合わねばならないのは、「自分ならどうしたか」ということだ。アンケートは「もし、自分が社員として乗り合わせていたら?」と続く。その回答は、「上司に救助活動に参加した方がいいと進言する」が六七%。「上司の指示を無視して救助活動に参加」が十七%、「上司の指示に従って出勤」は九%だった。むしろ「上司に進言したあと、それが受け入れられなかった場合にどうするのか(結局従うのか、逆らうのか)」が重要だと思うが、残念ながらその質問項目はなかったようだ。
 かつて、あるNGO代表(故人)が自発性の意味を「言われなくてもする、言われても(自分が納得しなければ)しない」と表していた。ボランティア活動をめぐっていわれた言葉だが、今回のことであらためてその含蓄の深さを思う。

 私たちの生活は、日々小さな判断の連続である。そのほとんどは、どちらに転んでもたいして影響のない小さなものだ。しかし、ときに、自分自身の立場も揺るがすような判断を求められることがある。今回のJR西日本の社員が、事故現場において、あるいはボウリング大会や宴会、ゴルフコンペを前にして求められたように。そして、自分の会社や団体の不正を知った時の判断、また、たとえば自分の施設で虐待が行われていると気づいた時の判断もそうだろう。
 その時、「組織の一員としての判断」と「市民としての判断」の間でせめぎ合いが生じる。その両者が一致している時は問題ないのだが、食い違った時に、どちらを優先するのかで苦しむのだ。ここで皮肉なことは、そもそもどちらか一方しかない人、完全に一体化してしまっている人は苦しまないということだ。むしろ、両方の視点を持っている人が悩む。先述のAERA記事では、今回の「JR西日本の社員の行動は、サラリーマン社会全体にとっての”リトマス試験紙“かもしれない」と結んでいた。
 今回の脱線事故では、一方で多くの地元住民や工場労働者がボランタリーに救助に駆けつけた。まさに市民として判断し、行動したのである。
 必要な時に、自信をもって「市民としての判断」をすることができる私たちでありたいと思う。そのためには、日頃の「市民」として生きている時間の長さと質が大変重要になる。一日の大半を組織の一員として過ごしている企業人は、とくにこのことを意識する必要があるだろう。このことからも、人びとの市民活動への参加は、現代社会において大きな意味を持っている。

市民活動情報誌『Volo(ウォロ)』2005年6月号   (通巻406号)

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