ボラ協のオピニオン―V時評―

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水俣病患者支援をこれからも

編集委員牧口 明
 いささか旧聞に属するが、この4月13日、熊本市在住の1人の元高校教師が肺炎のために亡くなった。名前は本田啓吉さん。享年81歳。
 本田さんは、旧制五高から京都大学文学部国文科に学び、卒業後は郷里の熊本に戻って中学、高校の教員を長く勤めた。
65年から4年間ほどは県高教組の副委員長や書記長を務めたが、いわゆる闘士、活動家といったタイプではなく、穏和な人柄で、「頼れるお兄さん」的存在として女生徒たちからの人気も高かったようだ。
 その本田さんの後半生を変えてしまったのが水俣病問題との出会いであった。水俣病が公害病と認定された翌年の69年4月。本田さんは、教師仲間や新聞記者、一般市民30人ほどで「水俣病を告発する会」を結成。以来約四半世紀、95年にパーキンソン病を患って闘病生活に入るまで、裁判闘争をはじめとする患者支援の活動の最前線で活躍した。74年に設立され、今も患者支援と水俣病問題の啓発に取り組む「水俣病センター相思社」は、本田さんの発案によるものである。同じく、水俣病問題への取り組みでよく知られている作家の石牟礼道子さんは、「一生のうちでこんなに深い影響を受けた人は初めて」と語っておられる。

●公式確認から50年

 折から、この5月1日は、水俣病が「公式確認」されて満50年の日であった。また、この6月14日は、本田さんが「告発する会」の結成を呼びかけるきっかけとなった水俣病損害賠償請求訴訟(第1次)提訴の日から満37年の日に当たる。この機会にもう一度、水俣病問題の発生から今日までを簡単に振り返ってみたい。

 戦後最大かつ最悪の公害問題とも言える水俣病は、56年5月1日に、当時の新日本窒素肥料(新日窒・現チッソ)水俣工場付属病院から水俣保健所に「原因不明の中枢神経疾患が多発している」との報告がなされたことで世に知られることとなった*1 。
 原因として、最初は伝染病が疑われ、次にタリウム、セレン、マンガンなどによる中毒が疑われたが、今日では、新日窒(チッソ)水俣工場で、アセトアルデヒド酢酸工程で生じる有機水銀が無処理のまま水俣湾(後には不知火海)に垂れ流され、それによって汚染された魚介類を食したことによって起こった有機水銀中毒であったことが判明している。
 チッソによるこの有機水銀の垂れ流しは32年から始まっており、すでに戦時中に水俣病とおぼしき患者が発生していたことが後の調査で明らかにされている。
 この有機水銀説は、公式確認後にその原因究明を県から依頼された熊本大学医学部の研究班が59年7月に「有機水銀が極めて注目される」との表現で発表し、その後、同年11月に出された厚生省食品衛生調査会の答申でも「主因をなすものはある種の有機水銀化合物である」と明記された。しかし、国が正式に、水俣病を「新日窒水俣工場(略)で生成されたメチル水銀化合物(中略)を保有する魚介類を摂取することで生じた」公害病と認定するのは68年9月のことである。チッソはその4カ月前の68年5月まで、有機水銀を含むアセトアルデヒド廃液を水俣湾に排出し続けていた。

●被害を拡大した企業・行政

 水俣病問題の歴史をひもとくとき、そこには、被害の拡大を防ぐ機会が幾度もあったにもかかわらず、チッソも、地元自治体の熊本県も、国も、その責任を果たそうとしなかったばかりか、むしろ原因の特定を遅らせ、患者の認定に高い壁を設け、患者さんに背を向け続けてきたことが分かる。

 例えばチッソは、59年10月の段階で工場廃水が水俣病の原因であることを確認していた*2にもかかわらず、その事実をひた隠しにし、熊本大学医学部研究班を中心とする有機水銀原因説に対して、旧軍隊が捨てた爆薬原因説とか、蛋白アミン説といった、医学的にも歴史的にも根拠のない説を振りまいて、原因究明の努力を妨害した。
 また熊本県や国は、少なくとも59年11月の厚生省食品衛生調査会答申が出された段階で食品衛生法を適用し、水俣湾内の魚介類の捕獲と販売を禁止すべきであったが、それをしなかった(04年10月、関西訴訟最高裁判決)*3。また、患者の認定をできる限り少なくできるよう、認定基準のハードルを高くし、多くの患者を未認定に追い込んだ(今日までに認定されたのはわずかに2千人余り、1万人以上の患者が未認定のままである)。
 水俣病患者の悲劇は、水俣病という公害病そのものの悲惨さとともに、その原因をつくったチッソという会社が水俣市においては「チッソ城下町」と言われるほどの大きな存在であったことである。ために、チッソの責任を問う患者さんたちは、多くの市民から「城主に弓引く輩」として忌避され、迫害を受け続けた。そのような患者さんたちにとって、本田さんたちの支援は行政交渉や裁判闘争を継続する大きな支えとなったに違いない。

●今日も続く患者支援

 水俣病患者への支援活動では、本田さんや石牟礼さん以外にも、さまざまな人たちがこの50年間に多様な活動を展開した。

 公式確認後に県から原因究明の依頼を受け、さまざまな困難を乗り越えて原因物質としての有機水銀と、それがチッソ水俣工場からの廃液によるものであることを突き止めた熊本大学医学部水俣病研究班のメンバー。その中から、現在、水俣病研究の第一人者として知られる原田正純さん(現、熊本学園大学教授)が生み出された。
 また、当時東大工学部の学生であった宇井純さんは、院生であった60年頃から水俣病問題にかかわり、助手時代の70年から85年にかけて、東大で自主講座「公害原論」を開講して水俣病問題の研究と啓発に精力的に取り組んだ。
 さらに、一人芝居「海よ母よ子供らよ」の公演活動を通じて水俣病問題の啓発に努めた砂田明さん、写真集「水俣」の出版を通して、水俣病問題を世界に発信したユージン・スミス、アイリーン・スミス夫妻。その他多くの人たちが患者さん支援の活動にたずさわり、今日も活動を続けている。
 04年10月の関西訴訟最高裁判決を受けて、昨年10月には新たな国家賠償請求訴訟が提起された。原告は千人を超えている。水俣病問題はまだ終わっていない。そして、当然のことながら、患者さん支援の活動もまだ終わってはいない。先日、東京都内で開かれた患者さんや支援者らの集会の名称は「水俣病 新たな50年のために」と題されていたそうである。

*1 症状としては、最初に手足のしびれ感があり、しだいに歩行障害、言語障害、知覚障害、視野狭窄、聴力障害、全身痙攣、狂躁状態、等を併発し、最悪の場合は死に至る。

*2 最近の新聞報道によると、すでに51年4月段階で、有機水銀の発生と流出が予測されていたという。
*3 実際には、57年7月には、熊本県衛生部がいったん食品衛生法の適用を決めていながら、厚生省の指導によりそれが見送られた。この厚生省の指導の背景には、戦後の産業復興を急ぎたい通産省の意向があったと言われるが、真相は定かではない。

【Volo(ウォロ)2006年6月号:掲載】

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