ボラ協のオピニオン―V時評―

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巻き込まれながら巻き返すために

編集委員早瀬 昇
■東京都、来春から「奉仕」必修化
 首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」が「国民すべて」に「満一年間の奉仕期間」を義務づける「奉仕活動の義務化」を提言したのが2000年。「なぜ“体験学習の重視”ではなく“奉仕活動の義務化”なのか」「まるで徴兵制だ」などの批判も少なくなかったが、翌年、学校教育法が一部改正され、学校では社会奉仕体験活動等の充実に努めることとなった。ただし「奉仕活動の義務化」にまで踏み込むことはなかった。
 ところが東京都は04年に公表した「東京都教育ビジョン」の中で「学校教育において、子どもたちに、長期の奉仕体験や勤労体験などを義務付けること」を提言。早速翌年から準備が始まり、来年07年4月から、すべての都立高校で「奉仕」を必修化することとし、この7月27日、「奉仕」の授業のためのカリキュラムなどが発表された。
 その「『奉仕』カリキュラム開発委員会報告書」では、「『奉仕』の授業は、生徒の規範意識を高め、社会に貢献する都立高校生を育成する」ために実施するとしている。『大辞林』(三省堂)では「奉仕」を「国家・社会・目上の者などに利害を考えずにつくすこと」「神仏・師・主君などにつつしんでつかえること」と解説しているが、総じて権威・権力に従う関係を前提としている言葉だ。こうした意味をもつ「奉仕」という用語にこだわり、かつ上記の「規範意識を高め」という文言もふまえると、東京都はまるで権威に従属する生徒を育てようとしているのではないか、と反発する読者も少なくないだろう。

■強権性がめだつ中での実施
 しかし、この施策は、もう是非を議論する段階にはない。すでに昨年度、21校が奉仕体験活動必修化実践・研究校に指定され、今年度は20校が試行校となった。そして来年度から都内約200校で13万人の高校生が「奉仕」を必修することになる。
 東京都と言えば、国旗掲揚・国歌斉唱に関して大量の教師を処分し続け、NPO法の運用でも他の道府県にはない都独自の指導が続けられ、NPO法人の不認証率も他の道府県平均が0・08%なのに対し東京都は2・57%と断トツの一位。その強権的な対応が目立つ中で、今回の「奉仕」必修化が進められることとなる。
 「自発的に参加し自分で考え工夫する中でこそ、気づきは生まれる」「“やらねばならない”状態では“言われたことだけすれば良い”という閉じた姿勢を招きやすい」「かえって社会活動を嫌いになる危険性がある」「『奉仕』ではなく『自治学習』という位置づけで進めるべきではないか」…。こんな疑問が次々と沸いてくるが、既に議論の余地はなく、実行の段階なのだ。

■「当事者」として巻き込まれる立場
 この動きに対し、個人個人の思いを丁寧に受け止め対応を続けてきたボランティアコーディネーターの中には、あまりに乱暴な取り組みで生徒の反発やトラブルの多発を心配する人も少なからずいるようだ。
 しかも、運営資金の多くを行政からの資金に依存する社会福祉協議会などの場合、この取り組みへのかかわりを拒絶することは難しい。今後、都立高校の教員とともに、都内のボランティアセンターなども、この取り組みの「当事者」という立場にならざるを得ない状況にある。こうなると、自由な活動を広げようと頑張ってきたコーディネーターほど意欲がそがれる一方、「言われた仕事をこなせば良いのだ」という無気力さが広がる懸念も出てくる。
 大きな社会の動きに巻き込まれ、自身が賛同しない取り組みの「推進役」になる。こうしたことが、時々起こる。今回のボランティアセンターの場合の他、たとえば介護保険や障害者福祉サービスの事業者の場合も同様だ。制度改革で従来と同様のサービスが提供できなくなった時、利用者からうらみを買う役を引き受けざるをえないのは、現場で課題と向き合う人びとだ。
 かつて市民活動の中には批判や告発中心の運動も多かったし、その運動によって制度の充実も進められてきた。その後、制度の整備を待っておれず、自ら社会サービスを生み出す団体も出てきた。そして、こうした先導的な動きがモデル役となって制度が創設されることも出てきた。そこで自らも事業者として参画するのだが、その制度が貧弱なものに改革されるようなことになると、このような立場に追い込まれてしまう。
 では、どうしたら良いのだろうか。

■「次代」を楽観し、したたかに動く
 ここで特にしんどいのは、当面の対応に追われ、私たちを巻き込んでくる動きに振り回されてしまうことだろう。「当事者」となってしまうと、巻き込んでくる動きが抱える矛盾を引き受けねばならなくなる。嫌々参加する生徒が起こすトラブルへの対応に追われたり、障害者自立支援法によるサービス低下の不満を一身に受け、消耗していく。このようなことは、ぜひとも避けなければならない。では、どうするか。
 その状況によって対応は異なるが、東京都の例のように、もう修正が難しい事態にまで至った場合、まず“あきらめる”ことが必要だと思う。ただし“あきらめる”とは降参することではない。感情的に事態を拒絶するのではなく、まず、一旦、現状を受け止める。いわば「開き直る」のだ。
 ただし、そこで「次代の可能性」を楽観し、将来へのビジョンを持ってしたたかに行動する…ということを続ける必要がある。
 たとえば、普段は接点の少なかった高校生や教員に市民活動の魅力を伝える機会と思い直してみるとか、「奉仕」のイメージを超える市民活動の自由な魅力を伝える機会としてしまおうと考える。あるいは障害者自立支援法で障害者の課題が深刻化することで、かえって旧来のADL(※1)中心の自立観の限界(※2)が理解されると考え、新しい自立観の普及に努める…といったことだ。
 また、巻き込むの強さにくじけずに状況を打開する意欲を維持し続けるには、たとえば「わざわざ学校で必修化などしなくても、元来、市民活動に参加することで人は生き生きできるのだ」といった自信を保ち続けたい。そのためには、現状認識や当面の対策を共有できる同志の存在も不可欠だ。
 厳しい逆境でふんばるには、良い意味での開き直りと楽観的な発想法が必要だと思う。

※1 日常生活行為能力
※2 本号の特集参照

【Volo(ウォロ)2006年9月号:掲載】

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