■いじめ自殺の背後にあるもの
昨年9月、北海道滝川市の小学6年生がいじめを苦に自殺をはかり、今年1月に亡くなった後、教育委員会や学校が事態の背景にあったいじめの存在をうやむやにしてきたことが全国ニュースで報道されだしたのが10月1日。その10日後、福岡県筑前町の中学2年生が、いじめを苦に自殺するという痛ましい事件が起こった。筑前町の事件では、教師によるいじめ助長があったことも分かり、学校の責任を問う声が高まっている。
教師という圧倒的に強い立場を利用して、子どもをむやみにランク付けするなど教師としての資質を疑うべきことだし、子どもたちを守ることが第一義のはずの学校や教育委員会が同僚や自らの保身に走るように見えてしまっては、教師や学校に対する信頼は根底から揺らいでしまう。
こうした状況をただすため、今回の事態を引き起こした教師、学校、教育行政の責任が問われなければならないだろう。
ただし、こうした教育サイドの問題がなかったら、いじめは起こらなかったかといえば、そうとは言い切れないのも事実だろう。洋の東西や時代などを超えて、人の集団の間には一部の人を排除したり不当に差別する事態が頻繁に起こってきた。ただし、その結果、自殺にまで追い込まれてしまうのは、思春期という人生の激動期にある子どもたちにとってのいじめは、その存在を全面的に否定されるほど深刻な体験となってしまうからだろう。
■スケープゴートとしてのいじめ
実は私の娘も、中学1年生の時、クラブ活動の中でいじめにあい、頭にハゲができるほどのストレスと心の傷を受けたことがある。
ハゲを見つけたことでいじめの存在に気づき、そのおかげで最悪の事態はまぬがれたように思うが、ハゲていることを見つけるまでは、家庭でもそんなそぶりも見せず、当事者以外、誰も気づかなかった。
ともあれ、いじめられていることが分かったことから、「なぜ、いじめにあっているのか、思い当たることはないか?」と聞くことができた。「あなたは少しわがままなところがあるから、それでいじめられているのではないか」などとも言ってみたが、「何も悪いことなどしていない」「でも、みんな私のこと『変や』って言うの」と話してくれた。
いじめが集団による「異質排除」の一形態である場合が少なくないことについては、多くの指摘がある。特に自我が確立し始める思春期の場合、それまでの「今を楽しめば良い」という子ども時代から、「私は本当にこの親の子どもなのだろうか」とか「将来、どのようになるのだろうか」と自らの過去や未来に思いをはせる自我が成長し、そのことから来る不安の中に置かれることになる。その時、誰かを「変だ」として異質者として認定し皆で排除すると、排除する側は「変」ではない「正常=普通」の側に立てる。
この関係は、自らが「普通」だと安心できることで安定し、それゆえ、いじめは深く長く続いてしまう。それこそ、いじめを止めさせようとする子どもが出てきても、その子どもも「変だ」とされ、なかなかいじめを抑えることが難しい…。
そんな解説を目にしたことがあった。このような見方からすれば、いじめとは、まさにスケープゴート(不満や憎悪を他にそらすための身代わり)ということになる。
■みんな「変だ」という人間観
では、このような事態を回避するには、どうしたら良いのだろうか。
私は、この問題を解決する鍵の一つは、それぞれの異質性を積極的に認め合う雰囲気を築くことだと考えている。
というのも、そもそも私たちはみんな「変」だからだ。それぞれの顔が違うように、みんなそれぞれに人と違う面を持っている。それこそ、もし「私には何も変なところはありません」という人がいたら、それこそとても変なことだ。
よく普通の人、普通の子という言い方をする場合があるが、そもそも「普通」の人など、どこにもいない。みんな、それぞれに「変」だし、それでよいのだ。
しかし、集団作業が重要な農業文化や鎖国政策、島国といった要素が作用してか、日本人の間には集団の構成員の均質性を重視する雰囲気が強い。その典型を学校に見るのは私の偏見かもしれないが、身なりの基準化に対する強い執着などを見ると、あながち的外れでもないように思う。そして、そのような雰囲気の中で、いじめが過激化しているように思える。
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