ボラ協のオピニオン―V時評―

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空疎な言葉で子どもは育ちますか?

編集委員増田 宏幸
■教育基本法を変える理由
 11月15日、衆院特別委で教育基本法改正案が可決された。高校の必修科目未履修やいじめ自殺問題、タウンミーティングの「やらせ質問」などが次々に持ち上がり、野党4党が審議拒否をする中、与党委員らだけの「賛成多数」だった。空席の横で与党側が起立する委員会室のテレビ映像が、寒々とした「教育行政」の現状を象徴しているようだった。
 学校教育は誰のために、何のためにあるのか。言うまでもなく子どものためだ。安倍晋三首相は採決後、「野党が出席しなかったのは残念だった」としながらも、「衆院通過は良かった」と話した。彼には彼の思いがあるのだろうが、何が「良かった」のか。そこに子どもたちの等身大の姿や、未来は思い描かれていたのだろうか。そうは思えない。
 今回の教育基本法の改正は、そもそも何が出発点だったのだろう。小泉政権を引き継いだ安倍首相は内閣の重要課題として、政策面では北朝鮮による拉致問題のほか、教育基本法の改正を挙げていた。それが成就しつつある時、「何のために変えるのか」を改めて考えると、「自分の信条のため」という以上の印象を持ち得ない。

■「四の五の言うな!」という権力者
 採決を前にした毎日新聞の11月12日付社説は「『やらせ質問』問題は、政府の『この催しで教育基本法改正案に国民的な理解を深めてきた』という説明に根拠がないことを裏付けた。履修不足問題を文部科学省が見過ごしていたことも発覚した。こうなっては『真理と正義を希求し』(改正案前文)の文言も空疎に響く……。一から論議をやり直すべきだ」とし、政府が改正を急ぐ理由を次のように指摘した。
 「新たな時代にふさわしい理念を追加するとか、国が責任を持って施策を進めるためとか、説明はあるが、現行基本法がネックになっているわけではない。また法を改めずともほとんどのことは現行の教育関連法規の運用で実行できるものだ。結局は『現行法は占領軍に押しつけられた。全面的に改めたい』という認識と動機が第一で、法改正そのものが自己目的化しているのではないかと思いたくなる。それが誤解というなら、深みのある論議を十分に経ないまま『残り時間』を言い立てるようなことはすべきではない」
 歴史的経緯の真偽はともかく、一部の政治家の「自前の憲法と教育基本法を」という考えは根強い。その主張の背後に共通して見えるのは「政治、軍事的に骨抜きにされた日本」「行き過ぎた自由、平等」「規律なき社会」などへのいら立ちだ。教育基本法でいえば「日教組に支配された学校教育のゆがみ」ということになる。
 安倍首相は10月18日の教育再生会議で「奉仕活動を行うことで、人間性や社会性を磨くことが必要だ」といい、自民党総裁選中の討論会でも「大学入学を9月にし、(高校卒業後の)4月から9月の間にボランティア活動をしてもらうことを考える必要がある」と発言している。「戦後教育は自由と放埓をはき違えてきた。今の子どもに必要なのは公共心と規律だ」ということだろう。出身派閥の旧森派の森喜朗元首相が「奉仕活動の義務化」を主張したことは記憶に新しいが、内心の自由や自発性を考えずに、まず法律で外側から縛りを掛けようという考えは繰り返し現れるようだ。いつの世にも「四の五の言うな」は手っ取り早いのだな、と思う。

■憲法9条は欺瞞の象徴?
 自分の経験を思い出す。30年近く前の中学1年から高校1年まで、野球部に所属していた。県大会の入場行進では大手を振って歩きながら、足は全体の進み具合に合わせ「ちょこちょこ歩き」だった。一人ひとりの姿はかなり滑稽ではあるが、鳥の目で見れば調和は取れている。北朝鮮のマスゲームにも通じる規律正しさが、大会を運営する大人たちの好みだったのだろう。北朝鮮のテレビニュースを笑う人がいるが、戦前の日本はまさにあのようだったのではないだろうか。戦前どころか、スポーツの鉄拳制裁をはじめ、いまだに同じ根っこを引きずっている現実がある。とても笑う気にはなれない。
 高校時代の記憶ではもう一つ、憲法9条が嫌いだった。武力の行使を永久に放棄する第1項はいいとして、第2項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とは何たる欺瞞か、と思っていたからだ。自衛隊はどう見ても陸海空軍なのに、「違憲ではない」として存在する。大人の「本音」と「建前」の乖離に敏感だった若き日、憲法9条は日本という国や大人たちの二枚舌、嫌らしさの象徴のように感じられたのである。
 その印象は、残念ながら今もある。小渕政権時代に国旗国歌法案が成立する前、野中広務官房長官らは「強制はしない」と言っていた。しかし、現実はどうか。東京都教委が卒業式など学校行事での国旗掲揚、国歌斉唱を義務付けた通達を出したのに対し、東京地裁は「憲法が定める思想・良心の自由を侵し、教育基本法が定めた『不当な支配』に該当する」として教員側の主張を認めた。それはいいとして、教育基本法改正案では「不当な支配からの中立性」を掲げつつ、新たに「この法律及び他の法律により行われるべきもの」と明記され、教職員に法令順守を求める内容になっている。つまり法律に基づく教委の命令や指導が、現場に対する「不当な支配」に当たらないとされる根拠ができたといえるのだ。「強制される」現実が、追認されることになりかねない。

■身近な大人の幸せな姿を見せること
 そう考えたとき、現在の子どもたちは教育基本法の改正、及び安倍首相が訴える教育改革に何を期待できるのかと思わざるを得ない。一人ひとりの姿より「美しい日本」の調和を夢見て、言葉自体に自家撞着をはらむ「ボランティアの義務付け」や、「我が国と郷土を愛する態度」を強制するのだろうか。
 子どもにとって必要なのは未来に夢を描けることであり、それは文言で担保されるものではない。何より大切なのは、身近な大人が社会にきちんと向き合い、幸せな姿を見せることだろう。年間3万人を超える自殺者がいて、「いざなき超え」とされる景気拡大も「実感なき」と形容される現実。マナーを知らない中高年があふれる中、子どもにだけ規律を求めるのはナンセンス極まりない。子どもが希望を持てる大人の社会を構築することこそ、市民も政治も真っ先に考える必要があるのではないだろうか。

【Volo(ウォロ)2006年12月号:掲載】

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