ボラ協のオピニオン―V時評―

寄付する・会員になる

ボラ協を知る

ボランティアする・募る

学ぶ・深める

呼びかけに応えて志を受けつぐ

編集委員牧口 明
 先日(4月29日)、随筆家として知られた岡部伊都子さんが亡くなられた。享年85歳。近頃よく聞かれるエッセイストではなく、まさに随筆家と呼ぶにふさわしい方だった。
 折しも、来月30日には、昨年亡くなられた小田実さんの1周忌を迎える。享年75歳。おふたりとも、その年齢から言えば決して早すぎる死とは言えないだろうが、おふたりの言動から多くのことを学ばせていただき、また励ましを与えられてきた身としては、やはり、「もう少し生きていていただきたかった」という思いが募る。
 方や、幼少時からの虚弱体質で、結核により高等女学校を中退し、「学歴はないけど、病歴はたくさんあります」とおっしゃっていた岡部さん。対して、大柄で、その名を一躍有名にした『何でも見てやろう』(1961年刊)からも読み取れる強靱な精神と身体を持った小田さん。一見かなり違った肌合いをお持ちのように思えるが、案外に共通点をお持ちのおふたりであった。

■大阪生まれ、大阪育ちのおふたり
 その一つは、おふたりとも大阪に生まれ、大阪で育たれたこと。岡部さんは、船場の商家のこいさん(※1)。小田さんは大阪市福島区のお生まれである。岡部さんはその後、大阪から神戸、また京都へと何度かの転居をされたものの終生関西から居を移されることはなかった。小田さんは、仕事(予備校教師や大学の教員)の関係上、国内はもとより海外にも移住されたが、晩年は関西に戻って西宮で暮らされた。その西宮で阪神・淡路大震災に逢われ、被災者支援のための市民・議員立法(被災者生活再建支援法)実現のために大きな役割を果たされたことはよく知られている。
 二つ目は、ともに無類の読書家であり、また、書き手であったこと。病弱で、女学校を中退して転地療養を繰り返された岡部さんの最大の楽しみは本を読むことと、その読書で得た発見を文章化することであった。
 一方の小田さんも高校の時、弁護士をしておられた父君の蔵書を読破し、教師から、「小田君にはもう教えることがない」と言われたとか。執筆の点でも早熟で、高校2年生の時に初めての小説「明後日の手紙」を執筆。河出書房から出版している。

■戦争体験に真摯に向き合ったおふたり
 三つ目は、おふたりとも第2次世界大戦(その日本における展開としてのアジア太平洋戦争)の体験を基礎に、憲法9条を核とした戦後日本の平和主義の実現と定着のため一貫して挺身されたこと。
 「自分はこの戦争は間違いやと思うている。こんな戦争で死にたくない」と言う許嫁者を「わたしだったら喜んで死ぬけれど」と言って戦地に送り出し、その許嫁者が沖縄戦で亡くなったことを生涯悔やみ通し、自身を「加害の女」と呼んだ岡部さんは、その体験と真摯に向き合うことで反戦・平和の強い思いを発信し続けられた。
 また小田さんも、アメリカ軍による3度にわたる大阪大空襲を小学生から中学生の時期に体験し、「殺される」側から戦争や社会のあり方を見る視点(虫瞰図)を、その言論と行動において貫かれた。
 四つ目に、先のこととも関連して、おふたりとも人権擁護・反差別の闘いに積極的に関わられたこと。
 自身が病弱だったことと、父上や戦後一時期婚姻関係を持った男性による女性差別の言動に悔しい思いをした体験が、反戦・平和の思想とともに、戦後の岡部さんを反権力、反差別、人権擁護の道へと誘った。
 小田さんもまた、「何でも見てやろう」以来の「人間すべてチョボチョボ」との考え方のもとに、反権力、反差別、人権擁護の姿勢を貫かれた。

■本誌の取材に応じていただいたおふたり
 そして最後に、もう1つの共通点は、ともに、本誌の取材に応じていただいたことがある点である。
 岡部さんは、本誌の前身である『月刊ボランティア』244号(89年4月号)「この人に」の欄にご登場いただいたし、小田さんは、やはり『月刊ボランティア』237号(88年7・8月号)の特集(「論理と倫理」組み立てないとゴリラにも勝てないよー小田実さんに聞く)と本誌385号(03年5月号「私の市民論」)にご登場いただいている。
 岡部さんはその紙面で、「何でもそうや思うんですけど、せんならんからするというのでなく、したいからするというのがいいですね」「お互いに、いのちの存在として、同時代を呼吸している。存在への敬意というものが基本にないと」「それは自分の人権回復、人間解放としての参加なんですね」と、岡部さんらしい表現でボランティア活動の本質をずばりと指摘されている。
 小田さんもまた「私の市民論」の中で、「震災のときに市民=議員立法を支援してくれた東京のメンバーがいる。こうしたボランティアが大切です」「震災のときにも、炊き出しをするだけではなく(被災者の生活再建策を実行する政治を求める)デモ行進をするボランティアがほしかったが、誰もしようとしなかった」「市民はもっと政策を作るべきだ」「(市民が)自分たちで知恵を出し合って政策づくりをやっている。こういうのができると世界は変わっていくだろう」と、これまた小田さんらしい語り口で市民論、ボランティア論を語っておられる(引用文中カッコ内の言葉は筆者のもの)。
 ともに、今日改めて読み返してみて、その内容はなんら古びてはいない。
 昨年8月4日におこなわれた小田さんの告別式で、ともに「9条の会」(※2)の呼びかけ人を務められた加藤周一氏は、「公的な小田実は驚くべき『呼びかけ人』でした」「小田実はいまも私たちに呼びかけています。皆さんとともに、ここに居られる全ての方と一緒に、その呼びかけに応えてゆきたいと思います。我々の希望はそこに開けてくるのです」と語られた由。私たちもまた、小田さんや岡部さんが生涯を掛けて、その生命を切り刻んでまで訴えられたこと、反戦平和や人権擁護の思いを引き継ぎ、その呼びかけに応えていきたいと思う。

(※1)主に大阪の商家で使われた言葉。末娘のこと。
(※2)日本国憲法9条の擁護とその思想の普及を目的に2004年6月に結成された市民組織。小田実、加藤周一、鶴見俊輔、大江健三郎、三木睦子、等の各氏が呼びかけ人となり、現在、地域・職場・職能別等に7千を超える9条の会がある。

【Volo(ウォロ)2008年6月号:掲載】

ボラ協のオピニオン―V時評―

  • 2024.02

    新聞報道を「市民目線」で再構築しよう

    編集委員 神野 武美

  • 2024.02

    万博ボランティア、わたしたちはどう向き合い生かすか

    編集委員 永井 美佳