■市民から遠い場所
東京に転勤になり、官庁街の霞が関、国会周辺の永田町を仕事でうろうろするようになった。ここは市民からとても遠い場所だとあらためて痛感する。
まず、各省庁の建物に気軽に入れない。ほとんどの入り口に駅の改札のようなゲートがあり、通行証が必要となる。通行証がない場合は、玄関で自分の名前や訪問先をいちいち書類に記入しなければならない。昨年、厚生労働省の元事務次官らが殺害される事件があったとはいえ、私たちの税金で維持されている建物に入るために、なぜこれほどの手間が必要なのかとても不思議に思う。
私は県庁や府庁、市役所などの近くで用事があるとき、よく庁舎の中を“探検”する。昼時ならば、間違いなく食堂を利用する。外で食べるより安くて量が多い。売店で地元特産品を販売しているところもある。書店があったり、喫茶店があったりもする。トイレもよく利用させてもらう。何より、その役所の雰囲気や職員の仕事ぶりの一端が見えて興味深い。
国の役所ではそんな気軽な探検は難しいが、仕事で各省庁に行ったとき、時間があれば庁舎内を歩いてみる。マクドナルド、ドトールコーヒー、ローソンなど、街の中と同じような店がいろいろあるのには驚く。霞が関からは少し離れているが、防衛省にはスターバックスがある。「役所というのはやっぱり福利厚生がしっかりしてるのね」と、嫌みの一つも言いたくなる。
財務省では、廊下の目立つ場所に堂々とたばこの自動販売機があり、庁内の喫煙室もなかなか立派だ。全国的に庁舎内禁煙が増えつつある中、さすがたばこ事業を仕切る財務省―と少々あきれる。
一方、日本の政治の中心である永田町。ここにある国会議事堂も、私たちの生活に直結する大事なことを決めている場所なのに、そう気軽に入れない。衆議院の本会議は現在、議員の紹介がなければ傍聴できない(参議院は紹介議員がいなくても可能)。しかし、国会議員の知人がいる市民など、どれほどいるだろうか。アメリカ・同時多発テロ以降の措置らしいが、国会の傍聴にこれほどの高いハードルを設けるのはどう考えてもおかしい。
本会議はテレビでも中継されているが、画面ではどうも会議全体の雰囲気が伝わりにくい。実際に傍聴してみると、ひどいヤジで答弁が聞こえないこともあるし、居眠りをしていたり、週刊誌のコピーを見ていたりする議員の姿もよく見える。後ろのほうの席で、何やらへらへらと笑いながら話をしている議員たちもいる。そんな光景を見ていると、「百年に一度の危機」にある国とはとても思えない。
■空虚に聞こえる国会の議論
麻生太郎首相をはじめ、今の政界には二代、三代にわたって政治家という家系の人が少なくない。そういう人は、市民から隔絶された永田町という空間の雰囲気を、若いころから違和感なく受け止めているのだろう。そして、自分たちがいかに多くの特権を有しているかということにあまり気づいていない。
一時、麻生首相が毎日のようにホテルのバーに通っていることがマスコミで話題になったが、個人的にはその行動自体が大きな問題とは思わない。気になったのは、そういう生活を“普通の人”がどう見るか、という点にまるで無頓着な首相の感性だった。
清貧を装えとは言わないが、記者の質問に「ホテルのバーは安い」などと気色ばんで反論してしまうのはどうだろうか。確かに、その人の立場に見合った飲食の場所というものがあるし、ホテルよりずっと高いバーもある。しかし、日々の食事さえ切り詰めている高齢者や仕事を失った人たちにとっては、ホテルのバーはやはり高い。無縁の場所だ。どういう背景があっても、それを「安い」と開き直られては、永田町との溝をますます感じてしまう。
そんな感覚の政治家たちが、国会で雇用問題や不況対策などを議論していても、どこか空虚に聞こえる。政治家として、全身全霊をかけ、この国難に立ち向かおうという気概が感じられない。麻生政権の支持率が低いのは、政策の中身というより、そのあたりに理由があるのではないかと思う。
■東京発の情報のゆがみ認識を
東京という大都会では、そこに住んでいる人々も地方にはない利益を得ることができる。さまざまなハードルがあるにせよ、国会を傍聴することも比較的容易だし、その気になれば国政に関する生の情報も得やすい。小学生が社会見学で国会議事堂を訪れている様子を見ると、「東京から遠く離れた地域の子どもは、気軽にこんな経験ができないなあ」と思う。
日本の人口の九割は東京都以外に住んでいる。東京への一極集中が進んでも、地方という基盤なくして日本という国は成り立たない。
最近、テレビのニュースを見て感じるのは、東京で少し大雨が降ったというような内容を、全国ニュースで延々と流すという馬鹿げたことが増えている点だ。仕事や観光で東京へ行く人々が影響を受けるのかもしれないが、大多数の視聴者にとっては関係ない。快晴の関西でそんなニュースを見せられると、「そんなの、関東のローカルニュースでしょ」と思ってしまう。
地方で災害や事故などが起きた場合も、東京の視点でニュースが流されているように思う。山間部の人々の日常を知らない記者が、災害の状況をピントはずれの感じで伝え、「ここにはコンビニもなく…」などと言ったりする。その記者にとっては、バスも電車も商店もない山奥の集落自体が、日常からかけ離れた存在なのだろう。
東京という「隔離されたテーマパーク」での議論や、そこから発信される情報には、かなりのゆがみがあることを、私たちはもっと認識すべきだと思う。人口減少や高齢化、雇用の崩壊など、日本が向き合う課題は地方のほうがより深刻で、すでに対応を迫られている。いわば“先進地”なのだ。
地方の現状を知らなければ、日本の本当の姿は見えない。東京からの発信をただ受けているだけでは問題は解決できない。同じ課題に向き合う地方同士が連携し、解決策を見いだす努力をもっとすべきだと思うが、どうだろうか。
【Volo(ウォロ)2009年3月号:掲載】
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