ボラ協のオピニオン―V時評―

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もっと議論を! もう一つの民意の回路「討議デモクラシー」

編集委員吐山 継彦
■政治的シニシズムからの脱却が必要
 「鼻くそが目くそを笑う永田町」
 あるテレビ番組で、司会者が話題にしていたシニカル(冷笑的)な川柳である。その番組では、最近の日本の政治状況について、視聴者からメールとファックスを募り、それが1週間でなんと1千100通にも達したそうである。その内容はほとんどが憤りで、「日本の政治家は本当に情けない」など「外国に対して恥ずかしい」といったものばかりだった。
 この番組を見ていて思ったのは、日本の庶民のなかに鬱屈する怨嗟とシニシズム(冷笑主義)が、なぜもっと公開性と双方向性をもった発展的な議論(討論・討議・協議)に向かわないのか、ということだった。
 政治討論番組への辛辣なコメントや新聞への投書、サラリーマン川柳欄への投稿などは、権力批判の有効な手段を持たなかった江戸時代の庶民の落書のようにも見える。また、庶民の不満が膨らみすぎて爆発すると困るので、ところどころ針を刺して、ガス抜きをされているようにも思える。
 “鼻くそ川柳”の作者は、目くそも鼻くそも永田町の政治家だと思ってシニカルに詠んでみせたが、政治家にすれば、「鼻くそがわれわれだとしても、目くそは“庶民”と呼ばれる君たちのことなんだよ」とほくそ笑んでいるのかもしれない。
 重要なのは、政治や行政の怠慢や欺瞞、悪徳は合わせ鏡のようにぼくらの背中を映しているのだということをきちんと認識し、政治的シニシズムと投書的政治参加からの脱却をいかに図るかということだ。
 確かに、現在の日本の政治状況と、政治家が演じている体たらくは余りにもひどい。2兆円という莫大な税金を、ほとんど景気押し上げ効果がないと思える定額給付金に使うことを決めたり、現職の大臣が外国での記者会見に呂律が回らぬくらい酩酊して臨むなど、“百年に一度”と言われるこの不況下の年度初めに、日本の政治は完全に機能不全に陥っている。
 政府首班が3代続いて選挙を経ずに政権についている、という事実に多くの国民は呆れるとともに、政治に対する無力感を強め、無関心に陥っているように見える。代議制民主主義を中心に据えた国と地方自治体の在り方への懐疑は、主人公であるはずの市民(国民)が各自1票の権利(選挙権)と納税義務のみによって真に主権者足りえるのか、というところにある。つまり、何年かに一度、1票を投じて議員を選ぶ権利と、コツコツ働いて税金を払う義務だけで、ぼくらはデモクラシーの主人公だと言えるのか……ということなのだ。
 小泉政権時代の05年9月11日に行われたいわゆる“郵政選挙”で、現在の自公政権が誕生して以来、小泉、安倍、福田、麻生と4人の総理大臣をぼくらは見てきたが、主権者としての貴重な1票を行使できたのは最初の1回だけ。場合によっては、このまま今年9月11日の任期満了衆議院解散総選挙まで、4年間まったく主権者としての意思表示をできないままになる可能性も出てきた。また、裁判員制度やソマリア沖への海上自衛隊の護衛艦派遣といった重要な事案が、市民への問いかけも市民間の議論もなく、国会での討議もほとんどないままどんどん実行に移されている。定額給付金だって、税金から支給されるのに、市民は一度だって意見を求められたことはない。

■民主主義の基盤は市民間の広範で深い議論
 しかし、嘆いているだけでは何も始まらない。
 そこで考えるのだが、民主的な政治システムが健全に機能するためには、市民による広範で深い議論が必要で、それこそがデモクラシー(民衆による統治)の基盤なのではないのか……と。そして、その基盤が日本社会の現状では決定的に不足していると思うのだ。社会や政治の現状に対するシニカルな居酒屋談義はあっても、フツーの市民による社会的課題についての広範で真剣な議論はとんと聞こえてこない。ブログ的モノローグで、個々の政治家を揶揄したり、政治状況について憤ることと、他者との議論の中で課題を冷静に分析し、可能な解決策や対案を練り上げていくプロセスとは全く違う。議論を尽くしたあとの連帯行動によって社会を変えていく、というのが「〈市民〉としてのスタイル」だろう。
 ここで読者に問いたいのは、民意の回路が間接民主制だけで、果たしてよいのか、ということである。
 そこで参考になるのが、欧米で試行されているもう一つの民意の回路である「討議デモクラシー」だ。例えば、ドイツでは、「プラーヌンクスツェレ(計画チーム)」と呼ばれる、討議デモクラシーの手法が70年代に創案され、いくつものプロジェクトが実施されてきた。この手法の特徴をまとめると次のようなものだ。

 ①都市計画や環境政策など、解決策を要する多様な課題について実施される。
 ②参加者は、利害関係者から選ぶのではなく、住民台帳から無作為抽出されるため、性別や年齢、職業構成などはほぼ地域社会の縮図となる。
 ③参加者には日当が支払われ、4日間程度の継続参加が必要とされる。
 ④実施については、行政ではなく、大学などの中立的独立機関が行う。
 ⑤関係者や専門家が参加者に対して必要な情報を十分に提供する。
 ⑥4~5人程度の小グループがメンバーチェンジを繰り返しながら討議する。
 ⑦最終的には文書の形で委託者(行政など)に対して「市民答申」を行う。

 日本でもすでに、いくつかの自治体でこの手法が試されているし、日本プラーヌンクスツェレ研究会が別府大学内に置かれている。
 『市民の政治学~討議デモクラシーとは何か~』(篠原一著岩波新書)によると、「(前略)一九九〇年前後から、参加だけでなく、討議の重要性が再認識され、とくに政治の世界の討議だけでなく、市民社会の討議に裏づけられない限り、デモクラシーの安定と発展はないと考えられるようになった。これが討議デモクラシーである」とされる。
 プラーヌンクスツェレのほかにも、討議制意見調査やコンセンサス会議といった手法が開発されており、これからの民主主義のあり方として、市民の参加と討議は欠かせないものとなるだろう。そこで、当協会でも、新しい事業として「討議デモクラシー研究会(仮称)」の発足を予定している。現在の日本社会には、代議制だけではなく、直接民主主義的なもう一つの民意の回路がぜひとも必要だろう。

【Volo(ウォロ)2009年4月号:掲載】

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