ボラ協のオピニオン―V時評―

寄付する・会員になる

ボラ協を知る

ボランティアする・募る

学ぶ・深める

揺らぐボランティア 権利と義務の間で

大阪ボランティア協会 理事長牧里 毎治
■有給休暇でボランティア活動
 「ボランティア活動をすることは社会的権利だ」と、ある家電メーカーの労働組合の機関紙に寄稿しようとしたら、「刺激が強すぎるので」という理由で最終的に拒否されたことがあった。内容としては、「労働者の権利である有給休暇をボランティア活動に使おう」という提案なのだが、「有給休暇制度の趣旨に反するので」ということらしい。
 そもそも有給休暇とは、使途の限定なしに(ということはつまり、家族の介護であれ、ショッピングであれ、旅行であれ、デイトであれ)取得できるはずなのに、なぜボランティア活動のために有給休暇を取らせないのだろう。ボランティア活動は労働ではないので、労働する権利や労働条件を守る立場にある労働組合の守備範囲をこえていることはよく理解できるのだが、有給休暇を取得して、自己実現をはかるためにボランティア活動をすることはけしからんことなのだろうか。
 職場をこえて市民社会に貢献するボランティア活動で、労働者は精神衛生上の効果が上がるかもしれないし、なによりも生きがいにつながるかもしれない。この労働組合幹部の見識の狭さに未だに納得できないでいる。この陽の目をみることのなかった草稿は、書斎のどこかで書類の山のなかに眠っているはずだが、思い出すだけでも気分が悪くなるのでそのまま埋もれたままにしている。

■もしも、こんな状況にあったら・・・
 例えば、あなたの向かいに一人暮らしの高齢者が住んでいるとしよう。日頃から挨拶したりはするが、留守中の声かけや預かりものをする程度の間柄である。
 朝、出勤しがけに玄関を出たところで、向かいから苦しそうな声が漏れてきた。老女は早朝から腹痛が酷くなり、我慢できないでとうとう気力を振り絞って救急車を呼んだのだそうだ。ここまでは良かったのだけれど、鍵を渡すから、救急隊が到着して乗車したら家の戸締まりをしてほしいと依頼された。このままだと会社に遅刻してしまう。慌てて会社の上司に「少し遅刻するので、今日の商談は先に進めておいてもらえないか」とケータイ電話で頼みこむ。
 そうこうするうちに救急隊員から、「病院までは搬送するけど、入院するとか手続きが生じると困るので、救急車に同乗してもらえないか」と依頼される成り行きになってしまった。病院まで同行するとなると、もはや半日仕事だ。また慌てて会社に「今日は欠勤にしてくれ」と連絡をいれることになった。受話器の向こうでは上司が「商談の担当者はあなただから、面談に間に合うように来てもらわないと困る」と言い続ける。
 そして、近所の向かいの老女の同行ボランティアだと知ると態度が豹変した。家族や親族でもないのに、なぜ仕事を休んでまで付き添うのだとなじる。ならば有給休暇を使って休みを取りたいと言っても、「有給休暇は自身の病気か家族の看護・介護のために使用するのはわかるが、近隣でのボランティアをするために用意されているものではない」と言い放つ。なぜ家族や親族の看病だったら良くて、ボランティア活動だったらダメなんだろう。ここで「ボランティア活動をするので有給休暇を使う労働者の権利を行使します」と宣言したらどういうことになるのだろう。

■「しなければならない」と「したいからする」
 日本社会の多くの人は、ボランティア活動をすることが社会的権利だなんて考えてもみないだろう。これまでの日本社会の風習と慣例では、ボランティア活動は市民社会の義務なんであって、「しなければならない」行為ではあっても「したいからする」活動ではなかったのだ。家族の介護など「しなければならない」とされるものには有給休暇制度や介護休暇制度も用意されるが、「したいからする」活動は自由意志で行う行為なので、制度外でやってくれということになっている。ボランティア休暇制度を創った会社もあるが、不況になったら廃止したり、制度は残したが適用条件のハードルを高く設定し直したりするという。事実上、使わないでほしいという会社の意向が制度のすき間から覗いて見える。
 たしかに有給休暇制度は、働かない人(日)に賃金を支払うことになるので短期的には企業の損失になる。それでも有給休暇制度が労働基準法に定められているのは、従業員の精神的ストレスの緩和や家族問題への支援に対応することが労働者の精神衛生の維持、労働力の摩耗を防ぐことになり、結果として企業の利益にもつながるからなのだろう。だとすれば、有給休暇を毎年未消化のまま残すよりも、ボランティア活動に参加したい従業員に有給休暇を積極的に活用してもらえば、どれだけ精神的に晴れやかな気持になれるだろうかとは考えもしないのだろうか。ボランティア有給休暇制度は企業の社会貢献活動でもあるのだ。
 ボランティア活動が個人を支援したり、地域貢献や社会貢献をする社会的権利と認められる社会こそほんものの市民社会なのではないかと思う。「ボランティア活動は、究極のレジャーだ」と言った人がいたが、まさにツボを心得た表現だと思う。お金をかけて、時間を使って、知識や技能を惜しげもなく差し出して、何が楽しいのだろうと思うかもしれない。しかしボランティア活動が、市民が楽しめる権利として、レジャーや娯楽と同等の市民権を得られた社会こそ成熟社会と呼びたいのだ。

【Volo(ウォロ)2010年1・2月号:掲載】

ボラ協のオピニオン―V時評―

  • 2024.10

    「新しい生活困難層」の拡大と体験格差〜体験につなぐ支援を〜

    編集委員 筒井 のり子

  • 2024.10

    再考「ポリコレ」の有用性

    編集委員 増田 宏幸