ボラ協のオピニオン―V時評―

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白紙委任をしないために

編集委員筒井 のり子
■民意とは何だろう
 大阪府の橋下徹知事の人気は相変わらず高い。就任2年(2月6日)を前に、新聞各社が府民を対象に実施した世論調査の結果を見ると、支持率は、毎日新聞70%(1月16、17日電話)、読売新聞83%(1月22~24日電話)、産経新聞83・2%(1月23、24日インターネット)、朝日新聞79%(1月30、31日電話)と、全国の知事の平均支持率が50%台であることからすると、異様ともいえる高い数字を示している。
 以前から、その過激な発言で物議を醸していたが、「何かやってくれそう」という漠とした期待を集めて当選。その後も「大胆な言動でメディアに多く登場することが人気の維持につながったとみられる」(読売新聞)ということだろう。
 その橋下知事の就任2年を検証する新聞連載記事(毎日新聞夕刊「検証就任2年 踊る橋下語」)の中で、知事の次のような発言が取り上げられていた。
 「僕が直接選挙で選ばれているので最後は僕が民意だ」(連載初回1月29日)というものだ。
 民意とは何だろうか。深く考え込んでしまった。

■白紙委任したわけではない
 民意とはもとより「人民の意思 国民の意見」という意味だ。政治家がよく使う言葉だが、「民意だ」と言っても、人によってその内容が正反対の場合もある。当然「民意」は多様である。たしかに、「選挙の結果は民意を反映している」ということもできるし、一方で「一票の格差」に象徴されるように、「選挙結果で民意がはかれるのか」という疑問もある。民意は一つ、あるいは常に定まったものがあると考えると、迷路に陥ってしまう。
 そうではなくて、「民意」という時に重要なのは、まず市民の意思をどのように顕在化できるのか、すなわち、選挙や市民の直接参加のあり方ではないか。そして顕在化された市民の多様(異質)な意見の中から何かを生み出そうとするプロセスなのではないだろうか。
 そのように考えると、「選挙で選ばれたのだから、自分が判断し実行することは、イコール民意である」という趣旨の発言は、あまりにも強引だ。彼に投票した人も、すべての事柄を白紙委任したわけではないはずだ。そこには、もう一つの民意の現れである議会の存在もなければ、ましてや、「市民参加」「市民自治」の発想は見えてこない。

■分権の主語は「市民」
 橋下知事は、「地方分権」についてもさかんに発信しているが、この地方分権について、前千葉県我孫子市長の福嶋浩彦氏(中央学院大学教授)は、3つの視点があると指摘している。
 すなわち、①地方ができることは地方に任せ中央政府をスリム化していくという行政改革のための分権、②全国一律の基準で運営するのではなく、自治体がそれぞれにあったやり方で地域を運営できるようにするための分権、③市民が行政の権限・財源をより自分の近くにおいて主権者としてコントロールしやすくするための分権(市民自治、民主主義のための分権)である。どれも重要だが、核心は3つめにあるという。
 分権とは、「国」が自治体に権限を分け与えるということではなく、「市民」が「国」と「自治体」に権限を分けて与えることなのだ。橋下知事の場合、この3つめの視点が弱すぎるのではないだろうか。
 3つめの視点が弱いのは、残念ながら市民の側も同じかもしれない。判断が難しい問題について、突き詰めて考えることを放棄して、つい誰かに「白紙委任」をしてしまいたくなる。主語になることを放棄してしまうのである。強力なリーダーシップを発揮する人がいる場合はなおさらである。
 そしていったん白紙委任してしまうと、ますます関心は希薄になり、お任せ体質ができあがってしまう。と同時に、要求体質も生まれてくる。このことは、身近な組織運営にも該当するだろう。
 このように、「地方分権」や「市民自治」の議論は活発化しているというものの、一方で十分に市民が主語になりきれていないという現実とのギャップがあり、ジレンマを感じている人は多いはずだ。
 さらに言えば、この20年ほどのボランティア活動の広がりが、必ずしも「市民自治」の基盤強化につながっていないのではないかという疑問もぬぐえない。

■滅私奉公― 活私― 活私開公へ
 00年以降、公共哲学という新しい学問が日本で注目を浴びてきた。公共哲学とは、「公共に対する新たなビジョンとそれを論理化する学問」であり、「民主主義と市場についての新しい見方を示すこと」(桂木睦夫)とも表現されている。
 「公共性の担い手は国家」というかつてのとらえ方を「上からの公共性」とし、それに対して「下からの公共性」というものを提起している。すなわち、従来の「公(おおやけ)」と「私(わたくし)」という二分法をとらず、「公」︱公共」︱「私」の三分法をとろうとするものである。
 さて、この公共哲学において、「活私開公」という概念が注目されているという。かつての公共性の論議で、「滅私奉公」(私を殺して、公に尽くす)と、反対に「滅公奉私」(自分の私生活さえ楽しめれば、人々との公共生活は無視してよい。ミーイズム)ということが言われたが、これらは実は表裏一体のものであると指摘。このように公私を対立的にとらえるのではなく、バランスをとろうとする姿勢が重要であるとされる。そして、登場したのが「活私開公」概念である。すなわち、「私」を活かすことが「公」や「公共」の領域を開くことにつながる、というものである。
 この概念は、ボランティア観の変遷と酷似している。
1970年代頃までボランティアは「滅私奉公」のイメージが強かった。「ボランティアが楽しんでは不謹慎」という意見も聞かれたほどである。それに対し、90年代に入ると、「私発(わたくし発)」、あるいは「私」自身が「楽しむ」「好き」ということの意義が強調されるようになった。つまり「活私」である。
 今、ボランティア活動で意識的に強調すべきは「開公」の部分だろう。ボランティア活動はそれ自体、「開公」の意味があるともいえるが、一方で「活私」だけにとどまってしまっていることも多い。ボランティアの広がりが必ずしも市民自治の基盤強化につながっていないという懸念が生まれるゆえんである。活動を通してより積極的に政府や自治体に参加し開いていくこと、あるいはそうした「下からの公共性」を作っていく意識をもった市民を育てていく働きかけが求められている。

【Volo(ウォロ)2010年3月号:掲載】

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