ボラ協のオピニオン―V時評―

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情報共有で阻む“神話”の流布

編集委員増田 宏幸
 例年と同じく二つの原爆忌と終戦記念日があった2011年の8月は、常ならぬ「節電」がキーワードの8月でもあった。異常事態の発端となった福島第1原発事故について考えるとき、驚かされるのは66年前の敗戦を招いた構図との、あまりの相似だ。

■事実より「願望」のリスク評価
 日本が不敗だという根拠のない〝神話〟。米英との国力の違いを小さく見積もる、手前勝手な「希望的観測」。戦争への慎重論を退け、左翼や社会運動を弾圧した「異見の排除」と、戦況の実態を知らせない「情報の独占・隠蔽」。旧軍や戦前の政治指導層の過ちとして指摘されるポイントは、日本の原子力政策にもことごとく当てはまる。
 活断層や津波のリスクを「敵」とみた場合、国と電力会社は敵の実力を合理的・客観的に評価したのではなかった。利益が出るようはじき出したコストの枠内で、勝手に敵を矮小化し、「絶対安全」を喧
けんでん伝した。だが敵は、願望通りに身を縮めていてはくれなかった。敗戦から時を隔てて再び、現実より幻想に立脚する専門家を見れば、日本人にはしょせん合理的思考は無理なのか? そう自嘲したくもなる。
 象徴的なのが経済産業省の原子力安全・保安院だろう。規制機関でありながら、原発に関するシンポジウムで電力会社に対し、推進の立場からの「やらせ質問」や動員を要請したことが報道されている。だが、そればかりではない。福島原発の「事故調査・検証委員会」(畑村洋太郎委員長)による調査で、新潟県が10年前に「地震災害と原子力災害の同時発生」を想定して避難訓練をしようとした際、保安院が県に対し「(同時発生の想定は)住民に不安と誤解を与えかねない」と助言していたというのだ(毎日新聞・8月18日付)。結局、新潟県は「雪害と原子力災害の複合災害」に想定を変更した。毎日新聞は「保安院が原発の『安全神話』を県側に押しつけた格好で、事故調は保安院の姿勢が福島第1原発事故での被害拡大につながった点がないか、さらに調べる方針だ」としている。

■民主主義の根幹支えた市民運動

 戦後の日本は、戦争の反省に立って民主主義を推進し、少なくとも不合理な〝神話〟は否定してきた--と思われている。だが実態はどうだったのだろうか。福島原発事故が照らし出したのは安全神話の崩壊だけでなく、戦後民主主義そのものの足らざる部分だったのではないか。このことを特に「情報」に着目して考えてみたい。
 神話は正確な情報のないところに生まれる。神話を流布する者は、実態を知らしめる情報を隠そうとする。独裁は、権力が情報を寡占して生まれる。独裁者は真実を隠し、民衆を統御しようとする。「知は力なり」というが、情報統制が権力の基盤であることは、かつての社会主義国家群や現在の中国、北朝鮮などが体現している。逆に民衆の側から見ても、情報は民主化の要だ。衛星放送による国境を超えた情報の共有が、東欧社会主義国のドミノ倒しを加速させたという指摘はよく知られている。
 では戦後の日本はどうか。例えば水俣病などの公害や、スモン、エイズなど薬害を巡る被害者・市民の運動は、一面では国の情報寡占に風穴を開ける動きだったといえる。原因やリスクに関する情報共有が早期になされていれば、被害ははるかに少なかっただろう。異なる意見、立場で情報の寡占や偏在があれば、まともな討議は成り立たない。情報を共有することは人権・人命を守ることにつながり、まさに民主主義の根幹だ。戦前の尻尾を引きずる日本が、曲がりなりにも選挙による政権交代を実現するまでになったのは、情報を巡って権力とせめぎ合ってきたさまざまな市民運動、市民活動があったればこそだろう。

■市民社会の自由は「活動の自由」

 ただし--。残念ながら、日本における情報共有はまだまだ不十分だ。今回の原発事故でも、情報の小出し、後出し、過小評価は枚挙にいとまがない。仮にパニックを恐れたとしても、情報統制によって民衆をコントロールしようとする発想自体が、旧態依然たる「お上」意識を図らずも露呈している。情報統制は個人の「判断」を阻害するものであり、判断がなければ行動の自由もなくなる。
 民主的な社会には移動の自由、職業選択の自由、意見表明の自由など、さまざまな自由がある。市民社会の自由とは、詰まるところ基本的人権に基づく活動の自由だ。東日本大震災の被災地、特に福島第1原発の周辺では、事故によってこの市民の自由が侵害されている。原発事故の要因に情報の寡占と独断的評価があったことは間違いない。であればなおさら、国と電力会社はその点を反省し、今こそリスク情報を共有しなければならない。
 情報に関してはこの1年、内部告発サイト「ウィキリークス」が大いに注目を集めた。中国の高速鉄道事故では、国内メディアが異例の政府批判を繰り返した。後押ししたのはネット世論だ。いずれも情報の持つパワーを再認識させる出来事といえる。一方でイギリス大衆紙の盗聴問題は、情報に群がる人間の醜い一面と、メディアと国家権力との癒ゆちゃく着を表面化させた。デマなど不正確で質の悪い情報、意図的に流される虚偽情報によって、間違った方向に駆り立てられることもある。だがそれは情報のせいではなく、扱う人間の問題、読み解く能力の問題だ。
 民主主義は、多くの異なる意見と知恵によって最適の「解」を見いだすシステムだろう。情報の公開と共有はそのベースとなる。過酷事故の背景にいまだ至らざる部分があったとすれば、それを自覚し、改善しようとする行動が次の災禍を防ぐ盾となる。神話の流布を二度と許してはいけない。

【Volo(ウォロ)2011年9月号:掲載】

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