ボラ協のオピニオン―V時評―

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伸展する「女子力」を活かすシステム(体制)構築を!

編集委員吐山 継彦
■最近よく使われる「女子力」とは
 アンケート調査などで、「3・11以降もっとも明るい話題は?」と聞かれて、「なでしこジャパンの活躍」を挙げない人はほとんどいないだろう。それほど、佐々木監督率いる彼女たちの活躍は、大災害以降暗い話題ばかりだった日本社会に光明をもたらしてくれた。
 ご他聞に漏れずぼくも、それまでは女子サッカーなどに何の興味も示さなかったのに、ワールドカップのスウェーデンとの準決勝戦で川澄選手が美しく長いボレーシュートを決めたのを目にしてからその面白さに目覚めてしまった。彼女があのシュートを決めたとき、頭の中でなぜか分らないが、「女子力!女子力!女子力!」という言葉が反響した。
 日本の男子サッカーも、最近はレベルが上がり、世界で活躍する選手も増えてきたが、ワールドカップ優勝などはまだまだ先のことだとしか思えない。なのに、ほとんど注目されていなかった女子サッカーがいち早く世界一になってしまったのだから、日本中が歓喜に沸いたのも当然である。  
 彼女たちは強いばかりではなく、巧みにパスを回す美しいサッカーを行い、対戦相手にも敬意を持って丁寧に接していた。また、キャプテンの澤をはじめ爪にネールアートを施している選手もおり、今までの女子スポーツ選手の概念を変えてしまった。
 強い、美しい、礼儀正しい、賢い、ユーモアのセンスがあるなど、総合的な人間力を感じるすばらしいチームだから、ぼくの頭の中で響いた「女子力」という言葉は、彼女たちのような「女性としてのトータルな人間力」のことだと思っていた。そのため、この言葉が主に女性のファッションセンスを意味すると知ったときは若干違和感があった。
 ウェブサイト「はてなキーワード」によれば、女子力とは「女性の、メイク、ファッション、センスに対するモチベーション、レベルなどを指す言葉」だという。つまり、女性特有の美的センスについてのタームとされているようなのだ。(「女子力」の初出は、漫画家・安野モヨコ〈大御所・小島功の姪で、1971年生まれ〉の単行本『美人画報ハイパー』(「VOCE」連載「美人画報」1999年12月号から2001年7月号までを加筆訂正し、まとめたもの)とされている)。
 しかし本稿では、そういう面も含めた総合的な人間力こそ「女子力」なのだと理解したいと思う。その意味で、日本の女子力が伸びているのはスポーツ界ばかりではない。
 市民活動の現場では、被災地のボランティアだけでなく、活動団体の組織運営にも多くの女子が主力となっている。また、ぼくの周りのどの大学教員に聞いても、「最近の女子学生は能力的に男子よりずっと優れている」と言う。また男子としての自分の実感でも、「女子には勝てない」と思うことが屢々ある。

■希望の明かりとしての女子力
 さて、ここで話は突然変わる。10月1日に最終回を迎えたNHKの朝の連ドラ「おひさま」の視聴率が絶好調だったようだ。平均的に20%程度あり、とりわけ福島県では30%に乗ることも多々あったという。あんなに悲惨な原発事故があり、まだまだ復旧・復興にはほど遠い福島でなぜそんなに人気があったのか……。
 一説には、地震、津波に加えて原発事故で仕事を失った人が多いため、朝の8時台にとくにすることがなく、仕方なく「おひさま」を見ていたのだと言われる。農業も漁業も、ほかの産業も無茶苦茶にされてしまったのだから、それも宜むべなるかなとも思う。
 しかしぼくは、ほかの理由もあると考えている。それは、あのドラマが普段の生活のかけがえの無さを描いていたからではないか……。
 ぼくは最初、「おひさま」をあまり面白いとは思わなかった。その理由の一つは、井上真央扮する主人公の陽子が、ほかの朝ドラのように、落語家や有名誌の編集者や日本初の女性パイロットになりたいといった大目的を持たない女子として描かれていることだ。また、陽子の性格が控え目で、戦中戦後という時代背景はあっても、嫁ぎ先の義父母はともかく、自分の夫に対して敬語を使うことにも平等主義者としては抵抗感を感じた。
 ところが、注意深く見ていると、脚本家がかなり東日本大災害の被災者を意識して台本を書いていることが分かってくる。阪神・淡路大震災でも同じだったが、被災者は異口同音に「日常の生活がいかに大切か分かった」との感慨を吐露する。それはそうだろう。普段の、当たり前の生活が突然断ち切られたのだから。
 人びとの日常の暮らしというものは、個々人にとってかけがえがないばかりでなく、社会(世界)全体にとっても非常に重要である。人々がやるべきことを着実に実行してこそ世界はスムーズに動いていくのである。スーパーマーケットの店員が食材を店頭に並べ、鉄道員が電車を運行し、会社員や役人が持ち前の仕事を十全に遂行してこそ社会はうまく回転していく。このような、世の中を日々滞とどこおりなく動かしている力を「日常力」と名づけてみよう。
 そうすると、あらためて気づくのが、日常力の大きな部分が女子力によって担われている、という事実である。女子力なしに、世の中の日々の暮らしは円滑に回っていかない。しかし日本においては、日常生活以外の部分で、女子力が十分に活かされている、とはとても言えないのではないか。とくに、政界や財界、官界、労働界など、社会の方向性(コンセプト)を考え、意思決定する分野ではいまだに女子力が十分に活かされていない、というのは衆目の一致するところであろう。
 これからの日本は、高齢化と人口減により、量的な意味での労働力ばかりではなく、総合的な人間力(創造力、企画力、交渉力、実行力等々)が確実に不足していかざるを得ない。そんな時代に、今まで十分に活躍の場を与えられなかった女子力こそが希望の明かりとなるはずだ。女子力が活かされるシステムを早急かつ真剣に模索していかないと、日本のさらなる地盤沈下は目に見えている。

【Volo(ウォロ)2011年10月号:掲載】

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