ボラ協のオピニオン―V時評―

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「歴史の転換点」と騒ぐ前に

編集委員磯辺 康子
 東日本大震災から7カ月が過ぎた。死者は1万5000人を超え、行方不明者を合わせると2万人近くになる。
 死者の数で災害を語るべきではないのかもしれないが、万単位の命が奪われたという事実にはただ圧倒される。日本では、10万人を超える死者・行方不明者を出した関東大震災(1923年)以来の大災害となる。
 それほどの出来事があったのに、この国の多くの人は今、私を含めて震災前とあまり変わらない生活を続けている。学校や職場に通い、温かいご飯を食べ、風呂に入り、布団で眠る。友人や家族とおしゃべりし、時には夜の街で酒を飲む。テレビでは芸能人がどうしたとか、かわいい動物がいるとか、震災前と同じような他愛ない話題が流れている。電力使用制限令が解除され、きらびやかさが戻った東京の
雑踏を歩いていると、「日本は本当に『未曾有の大災害』に見舞われたのだろうか」という思いが頭をよぎる。
 こんなふうに、被災地以外の人々に「日常」がたやすく戻ることは、ある程度予想できた。16年前に阪神・淡路大震災が起きたとき、2カ月後の地下鉄サリン事件で、震災はあっという間にローカルニュースになった。全国から被災地にボランティアに来ていた多くの学生にとっても、新年度を前にそろそろ本来の暮らしへと戻る時期だった。阪神・淡路大震災では6000人を超える人が亡くなったが、それほどの大災害でも世間は恐ろしく早いスピードで忘れていくのだ、と身をもって感じた。
 この16年余り、私の中には自分が経験した阪神・淡路大震災の記憶がずっと居座っている。もちろん、四六時中考えているわけではないが、月日を計算するときや出来事を思い出すとき、日本のどこかで災害が起きたとき、たいてい阪神・淡路大震災と結びつけて考える。神戸ルミナリエが始まったのは震災の年の12月だったとか、仮設住宅の入居者がゼロになったのは震災5年後だったとか、復興の時間の流れを自分なりの感覚で追いながら、自分の年齢と重ねて考える。
 しかし、被災地以外の人々はそういう時の流れの中にいない。自分の人生と復興過程は結びついていない。ある意味で、忘れても当然なのだと思う。

■繰り返される議論
 東日本大震災後、メディアには震災に関連する多くの評論が登場している。書店に行けば震災関連の出版物もずらりと並んでいる。「3・11は歴史の転換点だ」とか「日本社会の根底を揺るがした」とか、震災後の世界が大きく変わることを予感させる言葉が並ぶ。
 考えてみると、これらの意見は16年前の阪神・淡路大震災後に語られたものとよく似ている。あのときも今と同じように、人と人の絆の大切さが強調され、社会変革への期待が広がった。しかし、先にも書いたように、被災地外の人々の震災に対する関心はあっという間に薄れた。厳しい言い方かもしれないが、震災は評論の対象として消費されただけだった。
 今回の震災は、死者・行方不明者数にしても被害を受けた地域の広さにしても、その規模は阪神・淡路大震災を大きく超える。何より、東京電力福島第1原子力発電所の事故という、とてつもない事態が発生した。暮らしも仕事も奪われ、先の見えない長期避難を続けなければならない人が全国に散っている。
 こうした、いわば緊急事態が続いているのに、日本社会全体として見れば緊迫感はもうかなり薄れている。震災から7カ月を過ぎて避難所で暮らす被災者がいても、仮設住宅で自殺する人が出ても、原発事故で何万という人が見知らぬ土地に散ってしまっていても、そういう現実が自分の身にも起こりうるという危機感は非常に薄い。
 震災後の混乱の中、早朝に東京電力本社に怒鳴り込んだり、避難所で被災者に怒りをぶつけられてうろたえていた菅直人前首相は、首相を辞めたとたん、四国にお遍路へ出かけて満面の笑みを見せた。1
0月20日に開会した臨時国会は、復興庁の設置法案をぼちぼち審議し始めましょう、という悠長な対応だ。一方で、野田佳彦首相は就任早々、国連で原発輸出継続への意欲を示した。
 日本の行方を左右する政治がこんな状況である。日本社会が「変革」に向かっているとは、とても思えない。阪神・淡路大震災の後に似た無力感と失望を感じてしまう。

■足元の地域を見つめる

 今年9月1日の防災の日、東京都墨田区にある横網町公園を訪ねた。88年前のその日に起きた関東大震災で、避難してきた3万人以上の住民が火災に巻き込まれて亡くなった場所だ。公園内には東京都慰霊堂と復興記念館があり、毎年9月1日に法要が営まれる。慰霊堂には、震災で亡くなった身元不明の約5万8000人の遺骨が安置されている。白い骨壺が整然と並ぶ納骨堂に身を置くと、私たちはこの人々の無念をどれだけ受け継いで今の社会を作ってきたのかという思いにかられる。
 一方で、慰霊堂や復興記念館に残されている震災資料を見ると、現代の震災の復旧・復興と驚くほど似たような動きがあったことが分かる。国内外からの救援や義援金、復興を内外にアピールしようとする政府。仮の住まいを作る被災者、校舎を失い青空の下で懸命に学ぶ子どもたち……。生きる時代は違っても、再起しようとする人間の営みには変わらない部分が多いことを実感する。
 最初に書いたように、被災していない人間がその災害を思い続けることは難しい。しかし、自分が住んでいる地域に目を向けると、私たちの身の回りには過去の災害の記憶が必ずどこかに息づいている。この災害列島では、関東大震災のような大災害だけでなく、過去の震災や水害や噴火がさまざまな形で語り継がれている。
 東日本大震災に「歴史の転換点」などと意味を与えたりする前に、この震災で感じたことを自分自身の命や地域を守る行動にどうつなげていくのか――を、私たちは今、考えていくべきではないだろうか。悲しいことだが、今の政治に震災の重さと被災者の痛みを受け止める力はない。東日本大震災に出来る限り向き合い、自分が生きる地域の歴史に学び、一人一人が動いていくこと。その努力の積み重ねでしか、人の命を守ることはできないと思う。

【Volo(ウォロ)2011年11月号:掲載】

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