ボラ協のオピニオン―V時評―

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反原発デモにみる存在論的な不安と怒り

編集委員吐山 継彦

■デモの権利は権力と体制への潜在的な痛撃力
 最初、300人から始まったと言われる首相官邸前の脱原発デモ。毎週金曜日に定例化されて、いつも万単位の市民が集まり一向に衰える気配がない。野田首相も、ついに無視できなくなったのか、8月24日には菅前首相の仲介でデモの代表者たちと会って意見交換。意見は平行線をたどり一致することはなかったが、時の首相とデモ代表者との会見は前代未聞の事態と報道された。
 日本では、60~70年代にかけて反戦・反安保の大デモが繰り広げられて以来、これほど大きいものは絶えてなかったことである。今の市民活動の人たちがほとんどデモをしない理由は、かつてのデモの過激化に対する反発とその効果への疑問に尽きるだろう。しかし、米黒人の公民権運動など、街頭デモが歴史の中で大きな社会変革の端緒となったことも数多くある。だから、いつの時代もデモの権利の留保は、特権を持たない市民が有する支配体制と権力への潜在的な痛撃力として非常に重要である。
 日本の上層部(支配層)の大多数が、ノーブレス・オブリージ(高い地位に伴う道徳的義務)などには全く興味がなく、都合の悪いことを隠蔽、虚偽の報告をしてまで、自分たちの地位や利権を手放そうとしないことは、今回の原発事故における政府や東電の対応を見ているとよく分かる。だから市民は、止むに止まれぬ思いで官邸前デモに集結しているのだ。
 今回のデモの外見的な特徴は、人々が思い思いのスタイルで極めて自由に、ギターに合わせて歌を歌ったりしながら、"祝祭"的な様相を見せていることであり、かつてのべ平連(「ベトナムに平和を!」市民連合)デモを彷彿させる。しかし違いは、今回は女性や子連れの参加者がとても多いことである。その原因は、機動隊と学生の対峙といった危険性がほとんどないことであり、何よりもデモの主旨が自分たちの暮らしと生命に直結する脱原発であることだろう。
 かつての反戦デモは東西冷戦のまっただ中だったため、極めて政治的なイデオロギー色の濃いものだった。右と左、保守と革新、親米と親ソといった二分法によって色分けされ、生活への根ざしは浅いものだったと言えよう。当時20歳台前半のぼくらには学生も多かったので、定職や結婚や子育てといったいわゆる"生活"よりはむしろベトナムや安保などの政治的なテーマが関心の的だった。
 また参加形態も、過去と現在では著しく異なる。今のデモ参加者で組織動員されている人はかつてほど多くない。ツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアでの呼びかけに応えて、個人の資格で参加している人たちが圧倒的に多く、これは過去にはなかったスタイルである。

■民主主義の基盤としてのデモと市民活動
 今回のデモを見ていて強く感じるのは、その陽気な外見の裏に見え隠れする人々の根底的な怒りと不安である。それは、原発推進論に対する深い恐れに起因するものだろう。原発廃止による産業の停滞や電力料金の高騰などを根拠に、原発推進派は人々を脅かすのだが、デモ参加者にはそのこと自体に対する不信感がある。
 福島第一原発の深刻な事故の報道に接した人々が、被災者に降り掛かっている過酷な状況を知って、原発推進派の強弁にまやかしと胡散臭さを感じているのである。原発推進論の本音は"原子力村"の利益追求であり、市民の安心・安全は二の次である、と見抜いているのだ。
 もしそうではないと言うなら、なぜ、最も危険な作業を行う原発労働者が下請け、孫請け企業から派遣されているのか、また、原発が絶対安全なら、なぜ東京や大阪などの電力消費地に建設しないのか。そして究極の疑問は、放射性廃棄物の処理についてである。猛烈な毒性を有する廃棄物を処理する効果的な方法を持たない中、それを垂れ流す原子炉を稼働させる大義はどこにもない。
 今回のデモ参加者の意識の底流には、「存在論的危機感」とでも呼ぶべき本能的な不安があるように思う。人々は、炭坑のカナリア(有害ガスの発生を察知するため、先頭の鉱夫は異変に敏感なカナリアの鳥かごを携えて坑内に入った)のように、原発がもたらす未来の危険性を察知しているのである。考えてみれば、広島と長崎であれほどの核の恐怖を経験した日本人が、原理的には同じ核エネルギーの"平和利用"を押し進めてきたことのほうが理不尽だったのだ。
 社会(世界)が毎日滞りなく動いて行くためには、人々がそれぞれの日常生活をスムーズに送れなければならない。食事をし、働き、学び、子を育てる。それができなければ、世の中がスムーズに回転して行くはずがない。そういう当たり前の日々の暮らしが突然、広範囲にわたって途切れた。被災地の人々が不安と恐怖に駆られるのも当然だし、それが被災地以外の市民にも急速に伝播していったのだ。
 ところが、民主党の野田政権も政官財のエリートたちの多くも、そのことに極めて鈍感である。口では「脱原発依存」などと耳触りの良いことを言うが、本心は選挙の票を含めた自己利益と保身であることが透けて見える。3年前の総選挙で、それまでの政官財癒着政治が変わるかもしれない、との思いで民主党候補者に投票した多くの有権者たちには「政治家に任せてはおけない」という気持ちが強くなっていった。
 代議制、間接民主主義は、その基盤として広汎な市民の直接民主主義的な意識と行動がなければうまく機能しない。それが街頭デモであり市民活動である。
 そのことを筆者に改めて教えてくれたのは、本誌「語り下ろし市民活動」(2012年6月〜9月号)に掲載された和歌山「原発が怖い女たちの会」の運動だった。和歌山では、強力で執拗な原発誘致勢力に対して市民たちが協働、デモを含めたあらゆる活動方法を駆使して原発のない和歌山を実現したのである。
 市民活動とデモは、デモクラシーの基盤である。何もしないと、何も変わらない。

【Volo(ウォロ)2012年10月号:掲載】

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