ボラ協のオピニオン―V時評―

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吐山さんが遺した「言葉の力」

編集委員増田 宏幸

 ウォロ2011年6月号のV時評は、編集委員の吐山継彦さんが書いた『フツーの市民の「無頼性」について』だった。
 ――規律正しく、秩序を守る日本人の美質は、一方で体制(大勢)への従順さにもつながる。だが福島原発事故のような大きな禍根を残さないためには、時に抵抗し異議申し立てをする、市民としてのある種の"無頼性"が必要ではないか。そして、フツーの市民の無頼性の根拠は自己顕示に対する無欲、無名性の受容であり、そのような御しがたい無頼性こそが、健全な市民社会を脅かす巨大な力への抵抗、異議申し立てを可能にする――。要約すると、このような内容だ。
 前号でお知らせした通り、筆者の吐山さんは昨年12月11日、病気のため66歳で亡くなった。彼が書き残したものは紙媒体にとどまらず、ブログや電子メールのやりとりに至るまで数多い。改めてそれらの文章を読んで思うのは、「フツーの市民の無頼性」について書いた吐山さんこそ、まさにこの原稿の趣旨を体現する人物ではなかったか、ということだ。
 東日本大震災から2年。福島原発は廃炉どころか、政府の事故収束宣言にさえ疑問符が付き、周辺住民が元の暮らしに戻るめどもない。他の原発も活断層や津波対策が心配だ。何より、核のゴミの処理については無策と言うほかない。電力不足への懸念の一方で、原発に対する不安や懐疑が解消されない以上、安易に再稼働すべきではないと考えている人は多いだろう。だがそうしたフツーの市民の思いや声は政府に届き、再生可能エネルギーへの大胆な転換など、現実の政策に反映されるのだろうか。もっと言えば、反映させるにはどうしたらいいのか。そのヒントが、吐山さんの遺稿にあるように思う。

■自らの内なる「民主性」を鍛え直す
 吐山さんは取材・執筆・編集・企画などのスキルを持つプロ集団「言葉工房」(事務所・大阪市北区)の代表であり、極めつけの読書家、そして恐らくヘビー・ネットサーファーでもあった。かといって頭でっかちの理論家ではなく、1960年代後半には「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)の活動に参加。「南大阪ベ平連」を結成し、24歳の71年から5年間近く海外を放浪した。米国への留学経験もあり、マクドナルドのハンバーガーが好物だった。
 文章を生業とする人間には観察力が不可欠だが、目の前の事象から何をすくい取るか、それをどう的確に自分の言葉で表現するか……本質への深め方という点において、吐山さんはまさにプロであり、ジャーナリストであった。同時に、本人書くところの"無頼"であり、無名性を受容する御しがたい一市民でもあった。結論から言うと、吐山さんのような市民の存在が社会の強みと厚みであり、物事をより良く変えていく力になるのだと思う。
 そのことを示す一例が、2010年12月30日付のブログ『市民ライター日和~「言葉工房」的日常』の中にある。既に民主党政権への失望が募っていた時期で、吐山さんは「社会全体のムードとして、何か眼の覚めるような改革ができる"英雄"を求めたくなるのであろう。しかし、そんなことを期待してもどうにもならない」として、次のように書く。
 ―― 政治というのは、多数性を所与の条件としたコミュニケーション活動である。言葉を尽くして人びとの多様な価値観を融
合し、止揚することである。政治に"英雄"によるカリスマ的支配を求めることは、デモクラシーの本意である「ぼくらの自治」
を譲り渡すことを意味する。ぼくは、間接民主主義が真っ当に機能するためには、その基盤に市民による直接民主主義的な気風と社会課題に対する広範な議論、そして「自治」への間断のない努力が必要だと考えている。(中略)先の選挙における"勝利"とその後の"落胆"の原因は、間接民主制の基盤である「市民の直接民主性」の欠如であろう。このことを徹底的に検証し、自覚し、自らの内なる「民主性」を鍛え直す以外、次のステップを踏み出すことができないようにぼくには思える――。

■自覚的に考え、行動する「ぼく」

 吐山さんの文章には「ぼく」「ぼくら」という言葉がよく出てくるが、単なる一人称という以上に、「自立(律)した個人」の表象だと思えてならない。他人任せではなく、自ら考え、判断し、行動する市民。吐山さんの「ぼく」には、その意味合いが重なるのだ。
 我々は普段、職場や学校などさまざまな場面で、物事は一足飛びに変わらないことを実感している。逆に、もどかしいほど少しずつであっても、長い時間をかけて大きく変化するものがあることも、知っている。
 例えば原発をなくすとしても、当面の電力供給の安定、化石燃料の使用による温暖化ガスの増大、関連産業を含め雇用されている従業員と家族の暮らし、核武装のオプションを考えている人への説得などなど、やらねばならぬことは山ほどある。だが、やらなければ何も変わらない。そこで必要なのは、焦ったり絶望したりせず、ほんの少しでいいから事態を「突いてみる」ことではないだろうか。全く揺るがないように見えるものも、多くの手で繰り返し突けば、いつか揺らぐかもしれない。いったん揺れ始めれば、やがて大きな振幅になるだろう。
 突く作業の手始め、それが「他人任せにせず、自分で考える」ことだ。そして、考えたことを他人に伝える。次に、いろいろな考えを持ち寄って議論する。先を見すぎて無力感にとらわれる前に、小さな一歩を踏み出すのだ。吐山さんは、この点についても運動、活動、行動の3語から次のように考察している(同ブログ2010年8月10日付「市民自治のサイクル」)。
 ――三者の関係をぼくなりにまとめると、発端はアクションであろう。一人もしくは少数の市民があることに義憤を感じたり、改革の必要性を深く認識して行動(アクション)を起こす。そして、そのことに対する賛同者が徐々に増え、地道で息の長い運動(ムーブメント)に成長していく。究極的には、それらの努力が功を奏して制度(システム)にまで発展し、市民による日々の活動(アクティビティ)によって、有効な実践として完遂(アチーブメント)される。実は、「市民自治」というのは、市民のこの「行動⇒運動⇒活動」のサイクルのことを言うのではないだろうかと思うのだ。(中略)つまり、直接民主主義的な市民の自覚と行動こそが、制度としての間接民主主義を支えるのである。市民自治とは畢竟"市民活動"のことである――。
 吐山さんは膨大なエネルギーを文章に注ぎ込んできたに違いない。だから読んだ者に考えることを促し、行動に向かわせる力がある。それが物事を変える手始めなら、書き手としての自分も、市民メディアとしてのウォロも、同じように地道に、息長く、真摯に書き続けなければならない。「ぼく」が遺してくれた「言葉の力」を信じ、広げるために。

【Volo(ウォロ)2013年3月号:掲載】

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