ボラ協のオピニオン―V時評―

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沖縄、歴史認識・・・「共感」をベースに

編集委員増田 宏幸

 6月23日は沖縄県の「慰霊の日」である。1945年4月に米軍が沖縄本島に上陸して3カ月近く、追い詰められた日本軍が組織的戦闘を終えた日付をもって制定された。
 その沖縄・普天間飛行場に、地元の反対を押し切って米軍の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが配備されたのが昨年10月1日。日本本土ではその前後こそ大々的に報道されたが、しばらくするとほとんどニュースを目にすることもなくなった。
 久々に注目されたのは、日本維新の会幹事長の松井一郎・大阪府知事が、オスプレイの訓練の一部を府内に受け入れる意向を表明した今月初めだ。八尾空港を想定しているようだが、寝耳に水だった地元の反発が強い上、「そもそも八尾空港は日米地位協定に基づく『共同使用施設』ではなく、現状で米軍は使用できない」(毎日新聞6月5日付)という指摘もあり、実現は疑問視されている。

■政治任せでいいのか
 さて、ここまでオスプレイを巡る動きに触れたのは、沖縄の基地問題や、従軍慰安婦に関する「維新」の橋下徹・大阪市長の発言について、改めて「共感」をキーワードに考え直してみたいためだ。沖縄も従軍慰安婦もいわゆる「歴史認識」にかかわる問題であり、ひいては中国や韓国との関係にもつながる。解答の出しにくい問題について、一般の市民は政治任せの傍観者でいていいのか、NPOやNGOに役割はないのか……。「共感」をよすがに、そのことを考えるのが、本稿の趣旨である。
 筆者は本誌2010年12月号の「私のライブラリー」で、『小説 琉球処分』( 大城立裕著、講談社)を取り上げた。書いた当時は尖閣諸島近海で中国の漁船が海上保安庁の巡視船に体当たりし、その模様を撮影したビデオがネット上に流出するなど、日中関係が大きく波立った時期だ。
 少し長いが、この時の原稿を引用する。
「(前略)基地撤去を求める沖縄の声は通った試しがない。言葉が通じない、と思うのはこの点だが、更に言えば、通じない相手は政府ではない。沖縄以外の日本人だ、と思うのである。
 普天間飛行場の一部移設先として鹿児島県・徳之島が候補に挙がった際、鹿児島県議会は全会一致で「反対」を決議した。この問題で、沖縄の負担引き受けに言及したのは大阪府の橋下知事だけだったと記憶する。(中略)
 日本人は沖縄と決して連帯しようとしない。誰も沖縄を助けようとしない。自分たちは日本人なのか? 日本人ではないのか? そんな問いかけが大きく膨れあがる日は、案外近いのではないだろうか(後略)」
 沖縄では以前から「独立論」があったが、最近の情勢を受けて内外メディアの関心も高まっている。沖縄の基地負担肩代わりは常に総論賛成・各論反対で、身近な問題になった途端、議論の余地なく拒否される。沖縄からすれば「せめて検討くらいできないのか」と思って当然だろう。自分が沖縄県民だったら……。そう考えることは、我々にとってできない相談だろうか。

■語るに落ちた橋下市長の女性観
 一方の従軍慰安婦問題。毎日新聞が掲載した一問一答(5月14日朝刊)によれば、橋下市長は「慰安婦制度は世界各国の軍が活用した。(中略)精神的に高ぶっている集団に休息をさせてあげようと思ったら、慰安婦制度が必要なのは誰でも分かる」と述べたが、「今は?」という質問には「認められない」と答えた。ただ続けて、「慰安婦制度じゃなくても、風俗業は必要。普天間飛行場に行った時、『もっと風俗業を活用してほしい』と言ったら、米海兵隊
司令官は凍り付いたように苦笑いして『米軍では禁止している』と。建前論ではだめだ。そういうものを真正面から活用してもらわないと、海兵隊の猛者の性的なエネルギーはきちんとコントロールできない」と話した。
 ここから読み取れるのは、橋下市長が米軍に風俗業の活用を進言したことで、実は第二次世界大戦当時ならず今でも「従軍慰安婦的なるもの」を容認し、必要だと考えていることが〝語るに落ちた〟ことだ。橋下市長は風俗業の活用について「不適切な表現だった」と撤回したが、それはまさに「従軍慰安婦=風俗業」「当時の一般論=現在の私論」という本質に気づいていないか、気づかないふりをしていることを露呈している。

■NPOこそ「共感」表明のチャンネルに
 考えたいのは、基地問題について沖縄に共感するように見え、負担受け入れに積極的らしい橋下市長が、従軍慰安婦問題でなぜ前述のような発言になるのか、という点だ。政治的思惑は考慮する必要があるが、少なくとも3年前、基地負担受け入れに関するメリットはほとんどなかったはずだ。「実現しないことを見越して好き勝手に言う」という批判もあろうが、筆者は「共感度の差」だと考える。
 ここからは想像だが、橋下市長にとって沖縄の基地問題は関心と想像の及ぶ範囲にあるが、従軍慰安婦や風俗業に従事する女性のことは分かってもいないし、共感のべースもない、そういうことだと思う。それなのに、強制連行の有無に絡めて女性の人権について発言したことが、そもそも間違っていたのだ。
 しかし考えてみれば、それはある意味「普通」のことかもしれない。誰しも、当たり前だと思っていること、関心がないこと、無知なことには共感できない。そのギャップを埋めるのは認識不足に対する反省と、反省から始まる勉強だろう。橋下市長の風俗業に対する認識も、彼の内なる女性観を「かち割る」ことができれば、自ずと変化する可能性がある。そしてこのことは、我々自身に跳ね返ってくることでもあると思う。
 我々はどこまで沖縄の基地問題に想像を巡らせ、風俗業で働く女性に思いを致しているのか。軍隊の蛮行について、だからこそ戦争や紛争をなくさなければいけないと、どう意思表明するのか。議員や首長が右顧左眄して実質的に何も解決できないなら、NPOなどの市民活動こそ共感と連帯の気持ちを吸い上げ、広めるチャンネルになるべきではないのか。「正しさ」の押しつけは許されないが、そんな真っ当なチャンネルが見当たらない日本の現状を、歯がゆく思う。

【Volo(ウォロ)2013年6月号:掲載】

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