ボラ協のオピニオン―V時評―

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「震災を伝える」とは

編集委員磯辺 康子

■東日本大震災の被災地で
 災害の経験と教訓をどう伝えるか。東日本大震災の被災地は今、その課題に直面している。
 震災の発生から間もなく3年。被災者はなかなか進まない生活再建に苦悩する一方で、被災地外の人々の関心が薄れていくという現実も突き付けられている。「風化」という言葉が頻繁に聞かれるようになり、全国ニュースで被災地の動向が伝えられることがどんどん少なくなっている。時とともに「風化」が課題となるのは過去の災害でも同様だが、東日本大震災ほどの大規模災害でも、3年たたないうちにこれほど経験の継承が懸念される事態になるとは思わなかった。
 昨年11月、宮城県南三陸町を訪ねた際、地元のホテルが宿泊客を対象に実施している「語り部バス」に乗った。ホテルの社員らが語り部となり、町内をバスで巡りながら、被災当時の様子や自身の体験などを話してくれる。被災体験を持つ社員の言葉は単なる説明にとどまらず、「自分たちの経験を伝え、災害で亡くなる人を一人でも減らしたい」という強い思いがこもる。
 2012年2月から始まり、すでに4万人以上が利用した。その間に被災した住宅や施設の解体が進み、バスが巡る街の中は今、更地が広がる。そうした変化に、語り部を務める社員たちからは「被災した病院や学校などの施設が次々に取り壊され、震災を知らない人に被害を伝えることが難しくなってきた」という声が漏れた。

■「震災遺構」と復興
 その南三陸町に今も残る被災建物が、町の防災対策庁舎だ。町職員ら43人が死亡・行方不明となり、保存か解体かで議論が続いている。
 町はいったん解体を決め、昨年11月には、解体を前提に現地での慰霊式が開かれた。しかしその後、復興庁が災害の記憶を伝える「震災遺構」の保存費用について、各市町村1カ所に限り支援すると発表した。この発表を受けて、宮城県が保存すべき震災遺構について検討する有識者会議を設置した。南三陸町の防災対策庁舎の解体は現在、凍結状態となり、有識者会議の議論を待っている。
 保存か解体か、という問題に正解はない。その場所で家族を亡くした人が「ずっと目にするのはつらい」と言うのも当然だし、同じ遺族でも「最後にいた建物を残してほしい」という希望もある。町民の中にも「震災を後世に伝えるために残すべきだ」と考える人もいれば、「忘れたい」という人もいる。
 重要なのは、保存か解体かを決める過程で「災害の経験や教訓をどう伝え、どう受け継いでいくのか」を議論できる時間を持つことだろう。そういう意味で、町が出した「解体」の方針は十分に議論された結果とはいえなかった。
 「復興」にはスピードが必要だ、という人は多い。政府は「復興の加速化」を掲げ、被災者も一日も早い生活の再建を望んでいる。しかし、スピードばかりを重視する復興は、その速さについていけない被災者を生む。震災遺構の保存・解体の問題でも、住民の意見が十分にくみ上げられないまま、結論を急いでしまうことになる。

■阪神・淡路大震災の被災地で
 19年前に起きた阪神・淡路大震災の被災地には今、地震の傷跡をとどめる建造物がほとんどない。
 神戸港の崩れた岸壁の一部や、高速道路の橋脚の基礎部分などが保存されているが、いずれも断片的な形で残るだけだ。神戸市長田区に残った防火壁が市民らの運動で「神戸の壁」として保存されたが、これも淡路島の北淡震災記念公園などに移設する形でようやく実現した。
 阪神・淡路大震災の被害を学ぼうとする人々はたいてい、震災の7年後に開設された「人と防災未来センター」(神戸市中央区)を訪れ、街の被害を再現した実物大模型や映像で当時の様子を知る。北淡震災記念公園には、地震を引き起こした野島断層や断層のすぐそばにあった住宅などが保存されているが、それだけであの被害の大きさを想像してもらえるかといえば、疑問がある。
 私も含めて日々被災した地域で暮らしている者からすれば、壊れた建造物を毎日見るのは、やはりつらいことだった。壊れたまま長期間残った建物は、再建の方針をめぐって訴訟
になるなど、何かしら問題を抱えているものであり、「復興の遅れ」を象徴しているともいえた。
 壊れた建造物の撤去は、いわば、被災地の中の暗黙の了解で着々と進んでいった。しかし、19年たった今振り返ってみて、それでよかったのか、と考える。広島の原爆ドームなど
のように、後世に訴える力を持つ建造物の保存をもっと意識してもよかったのではないか、と思うことがある。

■伝え方を模索しながら
 阪神・淡路大震災の被災地に「形ある震災遺構」は少ないが、それを補うように、市民のさまざまな取り組みが続いている。
 毎年、震災が起きた1月17日前後には、各地で追悼の集いが行われる。神戸中心部の三宮・東遊園地でろうそくの灯をともす集いがよく知られているが、地域や団体、学校単位
で多くの追悼式が開かれる。神戸、阪神地域を中心に、震災の慰霊碑やモニュメントは200以上あり、1月17日なると花が供えられているところがたくさんある。
 追悼の集いには、東日本大震災の被災地からも多くの被災者が訪れている。そして、長い年月を経ても多くの市民が足を運んでいる現状が、驚きをもって受け止められている。
 阪神・淡路に限らず、過去の災害の被災地では、それぞれの地域に合った形で、経験や教訓を伝える取り組みがある。それを支えているのはやはり、市民の力であり、「伝えたい」という一人一人の思いだ。東日本大震災の被災地でも今後、経験の継承について議論が進むだろうが、その方向性を決めるのは最終的には被災者の思いといえる。震災遺構という形あるものの議論をきっかけに、私たちは「震災を伝えるとはどういうことか」をじっくりと考え、東日本大震災の被災地の動きに学んでいきたいと思う。

【Volo(ウォロ)2014年2月号:掲載】

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