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居場所と出番―サードプレイス再考

大阪ボランティア協会 理事長牧里 毎治

 無縁社会に対抗するささやかな取り組みとして、市民の交流する「集いの家」づくりが奨励されたり、市民が個人的に市民同士のつながりを求める場として自宅を開放する「住み開き」に取り組む例が新聞に紹介されたりするようになっている。その底流には、いつの間にか人々のつながりや絆が希薄になり、お互いの信頼関係が薄らいでしまった結果、閉塞化した家族・家庭を超えた交流を再生したいというやむにやまれぬ願望があるように思う。

 高齢者や無業の若者の居場所が無いとか、障害者の社会への出番がないといった問題はかねてよりあるが、行くところが無かったり、用が無かったりする人たちが増え続けている事態は変わっていない。むしろ行き場所を失ったり、引き籠もったりしている人たちは特別な人ではなく、多くの人々が職場と家庭以外に癒やされ、落ち着く居場所や、自分を取り戻す出番を失ってきているのではないか。市場経済主義や個人契約主義のゆきすぎで、現代社会の息苦しさ、閉塞感を感じている人たちが少なくないのではないか。

 互助やつながりの少なくなった都市社会を再生しようと、「サード・プレイス」に着目する潮流が顕著になってきているといえないだろうか。人間にとって生活上欠かすことのできない場所として、家庭がファースト・プレイス、学校や職場がセカンド・プレイスなのだそうだ。提唱者のレイ・オルデンバーグ(注)によると、サード・プレイスとは「とびきり居心地のよい場所GreatGoodPlace」ということらしい。そこは、家庭と仕事から逃れられる安らぎ、くつろぎの場であり、地位や身分にかかわらず人柄の魅力や気配りと思いやりの雰囲気が漂う場所である。フランスやイタリアの「カフェ」、イギリスの「パブ」がそれに当たる場所なのだそうで、「憩いと交流の場」をいうらしい。もちろん、現代風に商業主義的に造られたカフェや居酒屋ではなく、手頃で安価な飲み物や軽食の出る、そして常連客が気軽に会話や交流を楽しめる、多くの人に開かれた解放区でもある。

 振り返ってみると、庶民の憩いと交流の場として、日本には井戸端や銭湯があったし、寝泊まりできる集会所もあった。上下水道の整備とともに炊事や入浴は家庭に取り込まれ、井戸端も銭湯も消えていった。庶民の情報源はテレビやラジオ、さらにはインターネットに取って代わられた。喫茶店はカフェというお洒落な場になり、オジサンたちには居酒屋が憩いの場なのかもしれない。しかし、よく観察してみるとカフェや居酒屋には知り合いや仲間としか行かず、見知らぬ人とは交わりもしなければ、会話もない。「多くの人に開かれた解放区」とは少し違うのである。

 第一の家庭と住居、第二の居場所となる職場や仕事場は、国や自治体も庶民も近代化に応じてインフラ整備を求め、進めてきたが、第三の場所であるサード・プレイスの整備促進は置き忘れられたというわけである。確かに劇場やコンサートホール、他には公園や緑地、スポーツセンターなどの公共施設を除けば、市民が気軽に日常的に集い交わる居場所は激減している。だが、サード・プレイスの必要性が消えたわけではなかろう。どうやらインターネット情報社会では、人々は新しいスタイルの居場所が大切であることに気づき始めたようだ。

「集いの家」や「住み開き」は、人間を消費の対象としてしか見ない金儲け主義や、権利・義務にこだわりすぎる契約手続きへの庶民のささやかな抵抗、肩の力を抜いた息抜きの場なのかもしれない。家族・家庭という生活世界でもなく、企業・事業所という競争の場でもない居場所と出番づくりが求められている。

(注)USA西フロリダ大学に1971年から2001年まで教鞭をとった後、同大学名誉教授。1932年生まれの都市社会学者。1989年に『サードプレイス』を刊行以来、「とびきり居心地のいい場所」づくりに東奔西走、企業、市民団体のコンサルタントとして活躍した。解釈するだけの学者に満足できず、市民に歓迎される研究を心がけた。

【Volo(ウォロ)2015年10・11月号:掲載】

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