ボラ協のオピニオン―V時評―

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さあ、「問答」を始めよう ―参院選を前に

編集委員増田 宏幸

 本誌2、3月号の特集テーマは「市民活動のコトバを考える」だった。声や文字、手話といった伝達の手段を問わず、言葉が人間のコミュニケーションの根幹であることは当たり前の事実だ。言葉が人の心を動かし、行動を促し、ひいては歴史をも変える。一方で、言葉には多面性がある。発した人の意図と、受け取った人の理解が違えば、意思疎通どころか摩擦や対立を生みかねない。その力と危うさを市民活動の中で再考し、言葉を【どう使うか、使ってきたか】について見つめ直してもらえれば、というのが趣旨だった。

 コミュニケーション、意思疎通は「問答」なしには成り立たないだろう。ところが市民活動の世界から目を転じると、近ごろ「問答無用」としか言いようのない場面が目につく。それもただ問答を拒絶するのではなく、「多弁・雄弁」な姿で。
 例えば国会質疑がある。野党からの質問に対し、安倍首相が言葉数多く答える。だがその中身はどうだろう。質問への回答というより、自説を主張することの方が多くはないだろうか。質問者が「そんなことは聞いていない。この点について端的に答えてほしい」と言っても、再び同じような答弁が繰り返される。
 分かりやすい場面を、作家の柳田邦男さんが毎日新聞のコラム(5月28日朝刊)で書いている。5月16日の衆院予算委員会、保育士の待遇改善をめぐる民進党・山尾政調会長と安倍首相とのやりとり。
――「山尾氏はいきなり『男尊女卑政権』と決めつけたのではない。山尾氏は、保育士の平均給与が全産業労働者に比べ11万円も低いという格差を問題にしているのに、政府が女性労働者の平均給与との差を物差しにするのはおかしい、政府が(1)保育を「女性の仕事」とみている(2)男女の賃金格差を前提としている――の2点で問題だと指摘して、首相に発言撤回を求めたのだ」
 「しかし首相は正面から答えず『一気に全部やるのは簡単でない。民主党政権時代にできなかったじゃないか』と議論の焦点をずらし、感情的に文脈を飛躍させて、自ら『レッテル貼り』をしたのだ」
 「山尾氏はそれまで論理的に追い込む議論をしてはいるが、誹謗中傷する言葉は使っていない。山尾氏は再度、女性の平均賃金を物差しにすることを適切と考える理由をただし、答えないなら『男尊女卑政権だと言われますよ』と、初めて決めつけ語を使った」
 「首相はさらに感情的になり『まさに今のがですね、今のが山尾さん、誹謗中傷なんですよ。全く議論をすり替えています』と声を張り上げた」――
 柳田さんは更に、こんな場面にも言及している。「山尾氏が首相に、野党が提出した保育士給与5万円引き上げ法案が国会で審議されずたなざらしにされていることへの見解をただすと、首相は法案の内容には言及せず『(山尾氏は)議会の運営ということについて、少し勉強していただきたい』と、見下すような発言をした。昨年、質問者に『早く質問しろよ』とやじった情景が重なる」と。

 痛いところを突かれると、人は防御反応で攻撃的になると言う。男に多いように感じるが、安倍首相の態度も「攻撃は最大の防御」という戦術的なものではなく、とっさに自らを守る生理反応のように感じる。
 民主主義の眼目は、異論を受け入れ、血肉とすることだろう。誰かの言うことが、あるいは何らかの行動が、100%正しいということは恐らくない(逆に100%の誤りも)。だから複眼的な視点、異論が大切になる。国会質疑で安倍首相は極めて多弁であり、質問者と「応酬」しているように見える。だが論点はかみ合っておらず、それを故意にやっているとすれば「問答」ではない。形を変えた「問答無用」だ。東京都の舛添知事が無表情に繰り返した「第三者の厳しい調査を待ちたい」も問答無用の一変形だし、批判を歯牙にもかけないドナルド・トランプ氏の態度も同様だろう。
 自説が全てという人にとって、異なった意見を聴き、受け入れることは時間の無駄であり、面倒で非効率なことなのかもしれない。だが「個」を排除し、異論を圧殺する全体主義が崩壊していったことを、私たちは知っている。異論や異分子の存在が社会の健全性の指標であり、回り道に見えても、より民主的な社会を目指す本道なのだ。これは政府や安倍首相に限らず、政府に反対する人についても同じことが言える。「自説以外認めない」のは思考停止であり、立場にかかわらず社会を分断し、停滞させる行為だろう。

 異論の排除は世界的な趨勢かもしれない。日本の周辺を含め独裁的な各国で見られるが、最近ではトルコで著しく、軍政が長引くタイでも指摘されている。EU諸国での極右・民族主義的政治勢力の伸張もあり、第二次世界大戦後の世界は曲がり角にさしかかっているように思える。その根っこにはイスラム圏の混乱だけでなく、貧富の格差拡大など、それぞれの社会が抱える問題がある。考えてみれば米大統領選でトランプ氏や民主党のバーニー・サンダース氏に支持が集まるのも、既存の政治とは「問答できない=政策にアクセスする道がない」と考える層が、いかに多いかを示していると言えそうだ。トランプ氏の言動の当否はともかく、米国の有権者は「トランプ氏となら問答できる」と考え(あるいは誤解し?)、自らの選択と行動で意志を伝え、結果として既存の政治を大いに揺さぶっている。サンダース氏の主張に対する若者の共感と期待はより理解しやすく、それだけに無視できない力となっている。翻って、参院選が近づく日本はどうか。
 衆院との同日選がなくなって関心が高いとは言えず、最初から「どうせ何も変わらない」「投票したいと思う政党(政治勢力)がない」という諦めを持ってしまっている人もいるようだ。しかし消費税増税が先送りされ、福祉の財源や財政再建の先行きは見えない。米国同様、貧困・格差の問題も大きい。選挙結果によっては憲法改正(改定)論議が本格化する可能性がある。何より、私たちは日本の政治と「問答」できているのだろうか。異論を表明する自由、異物でいる自由は、狭まってはいないだろうか。
 今年は1936年の二・二六事件から80年。その4年前には犬養毅首相らが暗殺された5・15事件が起きた。乱入した青年将校らに「話せばわかる」と言った犬養首相に対し、青年将校は「問答無用、撃て」と発砲したとされる。その後の日本がたどった道を見れば、この「問答無用」は実に象徴的な言葉に思われる。繰り返しになるが、異論を邪魔者扱いせず、手間ひまかけて意見をすりあわせ、より良い合意を形成するのが民主主義だとすれば、私たちも安易に「決められる政治」に寄りかかるのではなく、憲法や税、国際関係、その他の問題について、能う限り真摯に考え続けなければいけないのではないか。
 政治を問答の土俵に立たせるには、まず投票を通じて意志表示することだ。米大統領選の状況を懸念したり面白がったりするのは簡単だが、米国では少なくとも人々が上げる声が候補者や党の政策、意識に影響を与えているように見える。選挙は私たちの意志のありかを示すまたとない機会だ。選択肢は限られているかもしれないが、最初から諦めるのはやめよう。

【Volo(ウォロ)2016年6・7月号:掲載】

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