ボラ協のオピニオン―V時評―

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外国人と共に暮らすということ

編集委員磯辺 康子

 一昨年から昨年にかけて約1年間、タイの公立高校で日本語を教えた。地方の町で現地の人々に囲まれて生活する中で、あらためて日本における多文化共生について考えさせられることが多かった。
 日本の中で東京が特殊であるように、タイの中でもバンコクは特殊だ。世界各国の旅行客が行き交い、地下鉄が走り、高層マンションが立ち並ぶ。あらゆる日本食が食べられるし(お金さえあれば)、マツモトキヨシも紀伊國屋書店もある。日本と同じような生活をすることが可能な街だ。しかし、郊外に向けて車で数時間も走れば、日本の数十年前を思わせる生活がある。私が暮らした町も、大雨が降れば停電や断水が起きた。雨が上がると水たまりでのんびり釣りをする人がいた。一方で、スマホやコンビニの浸透など、昔の日本との決定的な違いもあって、日本的なものさしでは測ることができない発展の姿や文化の多面性を日々感じることになった。

 暮らし始めた当初、最も戸惑ったのは時間の感覚だった。日々の移動手段はバスだったが、バス停も時刻表もなく、家の前でひたすら待つ必要があった(それでも公共交通機関があるだけありがたかった)。乗った後も、乗客が少なければ町の中を再度周回して客を拾ったり、バスが故障したり。こういう状況なので、人々は遅刻に寛容だ。授業は常に遅れて始まり、先生でさえ遅れて教室に入る。学校の行事も予定より大幅に遅れる。こうした時間感覚はタイに限らず、多くの国に見られるが、その文化の中で育った人々が時間管理の厳しい日本で暮らすと、かなりの息苦しさを感じることは、実感をもって想像できた。
 「待つ時間」「読めない時間」が多いだけに、そこに容易にスマホが入り込み、スマホ依存が激しいのもタイの現状だ。赴任した学校は、生徒のスマホ持ち込みを禁止していたが、別の学校で働く知人からは「授業中でも生徒が電話に出る」と聞いて驚いた。多くの人が仕事中でもLINEのやり取りをし、わたしの周囲でもあいさつなどの私的な内容から、授業の代行依頼や新任教諭の経歴まであらゆる情報が飛び交っていた。
 日本の感覚からすれば、数十年前と現代が共存していた。常識の違いを痛感させられた。日本に戻ってからも外国人に日本語を教えているが、自分が感じたカルチャーショックを考えると、彼らが日本で直面する戸惑いはどれほどのものなのだろう、と思う。

 日本では今、外国人が働く姿が当たり前になっている。厚生労働省の統計では、2016年、外国人労働者が100万人を突破した。コンビニや飲食店などは、留学生のアルバイト(週28時間以内の「資格外活動」)なしに立ち行かなくなっている。  昨年からは、日本の多くの職場を実質的に支える「外国人技能実習生」の制度に介護分野が加わった。しかし、政府は外国人労働者をめぐる課題に正面から向き合わず、人手不足を中途半端な制度で埋めているようにしか見えない。
 政府の対応が後手に回っていても、外国人との共生が喫緊の課題となり、私たちは今まで以上に他国の社会や文化を理解しようとする努力が求められている。そんな状況にもかかわらず、昨今、「日本文化の素晴らしさ」を強調する風潮が強まっていると感じるのは私だけだろうか。「時間の正確さ」は、別の側面から見れば「融通のなさ」になる。「日本的な細やかさ」を自慢しても、必要性を理解できない外国人もいる。
 多文化共生には、互いに歩み寄る努力が要る。どの国の人も自国の文化には誇りがある。ともに働き、暮らす外国人に「日本文化に従え」という姿勢で接していては、亀裂が深まるだけだろう。今の生活が多くの外国人に支えられている現実を、私たちはもう少し深刻に考えてもいい。タイでの経験は、そんな日本のありようを見つめ直すきっかけをくれた。

【Volo(ウォロ)2018年2・3月号:掲載】

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