ボラ協のオピニオン―V時評―

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石牟礼道子さんを偲ぶ

編集委員牧口 明

 この2月10日に石牟礼道子さんが亡くなられた。水俣病問題を扱った『苦海浄土――わが水俣病』で多くの日本人に(そして、海外でも)よく知られた作家である。
 石牟礼さんは1927年に現在の熊本県天草市で生まれたが、それは、その時期一家が一時的に居を移されていたためで、本来は水俣のご出身である。年表風に言うと、この時期すでに、水俣では日本窒素肥料(現チッソ)水俣工場の排水による漁業被害が出ていた。
 早熟で利発であった石牟礼さんは、小学校に入り、文字を習って作文を学び始めるとその魅力にとりつかれた。その時の感想をのちに、「『つづり方』というのを書いてみると、現実という景色が、いのちを与えられて立ち上がるのである」「この世を文字で、言葉に綴り合わせられることに驚いた。文字でこの世が復元できる。世界がぱーっと光り輝くようでした」と語っている。そして、40年に13歳で水俣町立水俣実務学校に入学すると歌づくりを始める。「生まれつきの文学者」であったと言える。敗戦後の47年には歌集『虹のくに』を自費出版してもいる。

 しかし、その文学的才能を存分に発揮できる環境は彼女に与えられなかった。先の歌集刊行と相前後して結婚したからである。夫は次男で教員であったとはいえ、当時の「農家の嫁」の置かれた立場は極めて弱いものであった。文学活動はおろか、朝の水くみの途中で、ちょっと拾った新聞を読んでいただけで「あの嫁は朝から新聞を読んどった」と噂される生活環境だった。
 それでも彼女は、歌誌の同人として活動を続け、58年には、上野英信・晴子夫妻や、谷川雁、森崎和江らが結成した「サークル村」の活動に加わり、機関誌に投稿する生活を続けた。『苦海浄土』第3章「ゆき女きき書き」の原型となる「奇病」は、60年1月にこの機関誌に発表された。
 石牟礼さんの生涯を読み解くキーワードを幾つかあげるとすれば、「死の衝動」「狂気」「渚」「もう一つのこの世」ということになろうか。
 石牟礼さんは戦後の46年1月から翌年7月にかけて3度の自殺未遂を繰り返し、55年にも、遺書まで書いて自殺を準備しつつも、まだ幼かった長男の発病により踏みとどまった体験をしている。そして、その想いは晩年までなくなることはなく、「早く死ぬつもりが88年も生きた」と後に語っている。
 それは何故か?私ごときが簡単に断ずることはできないが、子どもの頃からの純で鋭敏な魂を保ち続けた彼女には、この世のさまざまな不条理、醜さを、適当にごまかして生きることができなかったからではないかと思われる。二つ目の「狂気」は、その「死の衝動」と一対のものとも言え、幼い日に互いに世話をし、された、心を病んだ祖母との交わりが彼女にもたらした特異な才能とも言えるだろう。

 三つ目の渚は、彼女自身が「渚に立つ。海と山と、天と陸が交歓する。天草の祖たち、生と死の気配が満ちる……幼い道生をおぶって行商した薩摩の山中、筑豊のサークル村、東京の座り込みの現場、……。どこにいても、私は渚に立っていたのです」という、その渚である。ちょうど1年前に刊行された『評伝・石牟礼道子』の著者である米本浩二氏は「石牟礼道子は渚に立つ人である。前近代と近代、この世とあの世、自然と反自然、といった具合に、あらゆる相反するもののはざまに佇んでいる」と語っておられるが、その対比に「生と死」を加えても良いかもしれない。そして「はざまに立つ」ということは、相反する価値の間で常に緊張を強いられるということである。だからこそ彼女は「死の衝動」を捨て去ることができなかったし、それが生み出す狂気から束の間逃れるために創作活動を止めることができなかったのだと思える。
 最後の「もう一つのこの世」は、彼女が終生、夢に見、願い続けた世界である。彼女は言う。
 「私のゆきたいところはどこか。この世ではなく、あの世でもなく、まして前世でもなく、もうひとつの、この世である」
 さまざまな不条理、醜さを再生産し続けるこの世ではなく、また「あの世」でもなく「前世」でもない「もうひとつの、この世」。そのような世があるのかどうか。私には分からない。しかし、この世の生を全うされた石牟礼さんが、彼女が希求してやまなかった「もうひとつの、この世」に移住されたのだとすれば、彼女の死は祝って差し上げるべきことなのかもしれない。

【Volo(ウォロ)2018年4・5月号:掲載】

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