市民活動推進に人権感覚が必要なわけ
年度が替わり、新しい事務局体制になったことを機に、大阪ボランティア協会(以下、協会)の職員全員で大切にしたいこととして次の三つを共有した。
①大阪ボランティア協会の事務局員としてプロを目指したいこと、②世間の常識や自分の常識でものごとを決めつけないこと、③人の「いたみ」に敏感になれるよう感性を磨くこと――の3点である。特に、市民活動推進の世界でプロとしてやりぬくために、人権感覚を徹底的に磨き、身に付けることが必須であると強調した。すると、「『人権感覚』という言葉は初耳であり、ぴんとこない」と、民間企業から転身した新入職員から反応があり、私ははっとした。これまで、当たり前に使ってきた「人権感覚」という言葉だが、市民活動推進の文脈でその必要性を整理するとしたらどういうことだろうか。改めて考えてみた。
人権感覚という言葉は、文部科学省の「人権教育の指導方法等に関する調査研究会議」が次のように定義している。「人権の価値やその重要性にかんがみ、人権が擁護され、実現されている状態を感知して、これを望ましいものと感じ、反対に、これが侵害されている状態を感知して、それを許せないとするような、価値志向的な感覚である」(2008年3月、「人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]」より引用)。つまり、人権が擁護されている状態を望ましいと感じ取ったり、侵害されている状態を許せないと感じ取ったりする心の働き、といえるだろう。このような感覚を身に付けることが、自分の人権とともに他者の人権を守るような実践行動につながると考えられている。この実践行動が人権擁護活動や人権啓発活動であり、その一つの形態がボランティア活動でもあるのだ。
協会の目ざすボランティア活動の立脚点は三つあり、その一つは、基本的人権への正しい認識と擁護の活動である。そのことを、協会の基本要綱(1981年発行)では「基本的人権――つまり人間が人間らしく生きていくための人間の尊厳――への正しい認識が活動の立脚点、出発点でなければなりません。ボランティア活動はいわば基本的人権の擁護の活動であり、それゆえ単なる善意活動にとどまらず、差別や貧しさや困難をもつ人々とともに課題の解決をはかることであります」と記してある。「擁護」の意味は、「危害・破壊を加えようとするものから、かばいまもること」(三省堂『大辞林』第三版)なので、基本的人権の擁護の活動とは、人間が人間らしく生きていくうえで、何者かが危害や破壊を加えようとしたならば、他人事として見過ごさずにかばい守る行為、ということになる。ボランティア活動において、人権感覚はアンテナとなるのだ。
アンテナの受信感度は高い方がよいし、人権感覚を身に付けた人材を育成することは協会の重要な仕事の一つである。どのような人を増やしたいかといえば、「課題の解決をあきらめない、もしくは、誰かのあきらめない生き方を応援するために、社会の課題を敏感に認知し、ときには多くの市民への可視化を通じて社会化するように動いたり、課題解決に向けての多様な手法を提案できる、そんな人材」であり、これが協会の目ざす人材育成像だ(2015年、「『アソシエーターの手引き』アクションガイドブック」より)。
協会で市民活動推進の職に就くということは、自分の人権とともに他者の人権を守るような人権感覚と実践行動力が求められるのだと、職員全員へ改めて伝えよう。そして、協会創立以来継承されてきたDNAを、未来へ語り継げる立場にあることを誇りに思う。
市民が裁判員を経験することの意味は何だろうか。まず、司法が身近になったり、自分の世界が広がったりすることがあげられる。また、事案に真剣に向き合うほど、被告人や被害者の立場になって考えてみたり、社会問題に目を向けたり、自分の生き方を見つめ直したりと、自分たちの問題として裁判員裁判を考えるようになることもあるだろう。かけがえの無い経験は、価値観を柔軟に変化させて、人間的な成長を促すことにつながるはずだ。社会の問題を自分ごととしてとらえ、その解決に向けてボランタリーに行動する人が増えると、必ずや市民主体の社会の礎になると筆者は信じている。
【Volo(ウォロ)2019年4・5月号:掲載】
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