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ハンセン病家族訴訟判決に思う

編集委員牧口 明

 去る6月28日、熊本地方裁判所で審理がおこなわれていた「ハンセン病家族訴訟」の判決が下された。結果は原告側のほぼ全面勝訴と言えるもので、7月9日に被告の国側が控訴を断念したことで判決が確定した。
 この裁判は、2001年に同じ熊本地裁で出された、患者本人に対する国の賠償責任を認めた判決を受けて、患者の家族が「ハンセン病においては、患者のみでなくその家族も、国の誤った政策により差別・人権侵害を受け、大きな被害を被ってきた」ことへの賠償を求めて16年に提訴したものである。この機会に、日本におけるハンセン病施策の歴史を確認しておきたい。

 ハンセン病(らい病)は紀元前から知られている病であるが、その後遺症として手足や顔面などに著しい変形をもたらすことから、周囲の人たちからは天罰やたたりによるものとして罪人のごとくに扱われて忌避されてきた長い歴史を持つ。
 近代に入っても「遺伝」や「不治の病」との考え方が流布していたが、1873年に、ノルウェーのアルマウェル・ハンセンによって「らい菌」が発見され、感染病であることが明らかにされた。そして、その感染力も極めて微弱なものであることが19世紀末には知られるようになった。1897年に開催された第1回万国会議においては、ハンセン病は伝染病であること、治療は、症状に応じて「相対的隔離」を原則とすることが確認された。
 ところがなぜか、日本においては1907年に制定された「法律第11号・癩予防に関する件」によって、世界の動向に反して絶対隔離の政策がとられるようになった。感染力からして全くその必要のない患者を家族や地域社会から引き離し、一般社会から隔絶された療養所に強制的に入所させること自体大変な人権侵害であり、そのことによって「ハンセン病は恐ろしい伝染病」との誤った認識を一般国民に持たせてしまった罪は余りにも大きいと言わざるを得ない。判決文でもその点について「家族が国民から差別を受ける一種の社会構造を形成し、差別被害を発生させた。(中略)原告らは人格形成に必要な最低限度の社会生活を喪失した」と指摘している。
 さらに驚くべきことに、この政策は第2次大戦後も継続され、WHO(世界保健機構)がハンセン病患者を対象とする隔離政策を見直すよう提言した52年の翌年には、その提言に挑戦するかのごとく、多くの患者の反対を押し切って「改定らい予防法」が制定され、「療養所への入所勧告を原則とする」方針が確認された。この時期、戦時中アメリカで開発された治療薬プロミンの合成に国内でも成功し(47年)、「ハンセン病は確実に治る病気」となっていたにもかかわらずである。

 では何故、このような理不尽が長年にわたって是正されることなく続けられてきてしまったのか?
そこには、明治30年代から昭和30年代にかけての60年余りにわたってハンセン病医療にかかわり、絶対隔離政策に多大な力を振るった光田健輔の影響を無視することはできない。
 光田は1923年に開催された第3回国際らい会議の折に、インド代表のロージャーが作成した国別患者表を見て、日本の患者数は植民地国家同様の多さであることを知り、そのことを国辱と感じたと言う。その国粋主義的価値観と優生思想から、「病の治癒」ではなく「病人の抹殺」を図ろうとしたように思われる。そうした光田の考え方は、折からの「健民健兵政策」と共鳴して国策として権威づけられた。
 ここで私たちが忘れてならないのは、正しい知識を与えられなかったためとは言え、戦前のみでなく戦後もおこなわれた「無癩県運動」なる取り組みによってそうした「病人抹殺」のお先棒を担がされたのは「善良なる」一般市民であったという歴史的事実である。
 最近出版された池田浩士『ボランティアとファシズム』には、戦前日本の大政翼賛運動やナチズムを例に、市民(国民)の自発性が全体主義権力を下支えする構造が丁寧に論述されているが、今日でも私たちの活動には、常にそうした怖ろしさがしていることを改めて肝に銘じておきたい。

【Volo(ウォロ)2019年8・9月号:掲載】

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