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コロナ危機――俯瞰的な視点から考える

編集委員増田 宏幸

 「新型コロナウイルス」には飽き飽きしている向きも多いだろうし、以下は日本の現状から遠くてピンと来ないかもしれない。それでも意識しておきたい事柄として取り上げたい。
 4月11日深夜、NHKのEテレで「ETV特集『緊急対談 パンデミックが変える世界~海外の知性が語る展望~』」なる番組があった。各国の歴史学者、政治学者、思想家がパソコン画面を通してキャスターとやりとりする構成で、それぞれ深い洞察を基に、新型コロナウイルスが突きつける歴史的、社会的、政治的、哲学的な意味合いや、ウイルスがあぶり出す社会矛盾、課題を語った。個人的にとりわけ印象に残ったのが、イスラエルの歴史学者で「サピエンス全史」の著者でもあるユヴァル・ノア・ハラリ氏から発せられた「コロナ独裁」という言葉だった。
 コロナ独裁とは、端的に言えば「感染爆発(あるいはその恐れ)を背景(理由)に、危機を乗り越えるという大義名分の下、政府(指導者)が絶対的な権限を一手に握ること」と言えるだろう。

 既に各種報道があるが、典型的な例はハンガリーのオルバン首相だ。報道によれば「新型ウイルス対策として、3月11日に首相が現行法の効力を停止できる非常事態を宣言し、学校閉鎖などの措置を取っている。非常事態の継続は(中略)無期限に引き延ばせることになった。(議会が可決した法案には)新型ウイルスの感染防止策を妨害するような『フェイク(偽)ニュース』を流した場合、最大5年の禁錮刑を科す条項も盛り込まれた。政権を批判するメディアを抑え込む目的があるとみられる」(毎日新聞4月6日付朝刊)という。
 日本はどうだろう。安倍政権の対策は4月中旬時点ではむしろ後手に回っており、経済的ダメージの膨張を恐れるせいか、緊急事態宣言の発出にも慎重だった。外出禁止も強制ではなく、独裁とは遠い現状に見える。ではなぜ「コロナ独裁」という言葉に耳目をそばだててしまうのか。それは、必ずしも日本に無関係とは言えないからだ。
 以前にも本欄で書いたが、独裁と、メディア統制やNGO・NPO=市民の自由な活動の統制・排除は双子の関係にある。独裁政権は情報を独占し、市民・国民の判断材料を奪うことによって成り立つ。市民活動は社会や制度の不備・矛盾をさらけ出し、容易に政権批判に転じる存在だから認めない。中国で人権派弁護士の拘束、ハンガリーで海外から資金援助を受けるNGOを排除する動きがあったのも、結局は政権に批判の矛先が向かうことを恐れているからだ。

 日本では政府の対策に「遅い」という声がある。旧民主党政権を「決められない政治」と罵った現政権だが、その批判が自らに跳ね返っているようにも見える。ただ、注意しなければいけない。政権・政策への失望が深まると、新たな「決められる政治」「強いリーダー」を待望する心理、空気が醸成される可能性がある。海外の独裁的政権は、そうした危機バネで統制を強化している。日本でも感染防止のため「強制力のある外出禁止措置が必要」という論が広く見られた。現状にいらだつあまり、自ら求めて強い措置、強い政権を無批判に受け入れてしまうことだってあり得る。
 現にコロナ危機のさなかにも、自民党は憲法改正推進本部の会合を開いた。危機を背景に「憲法改正で目指す『緊急事態条項』明記の意義をアピールし、停滞する国会での改憲論議を加速させたい考え」(同4月11日朝刊)とみられている。当否は別に、危機を利用する動きは常にある。さしたる議論もなく賛成してしまえば、それが独裁的政治への出発点になるかもしれない。危機にあって感染防止は最優先だが、そこにのみ焦点を当ててしまうと見過ごすものが出てくるだろう。
 日本には戦争に勝つため政府・軍部に全権委任し、進んで、あるいは同調圧力の下で「国民一丸」、協力した歴史がある。それは自由を失う過程でもあった。どんな危機の中でも同じ轍を踏まないため、俯瞰する視点を忘れずにいたい。

【Volo(ウォロ)2020年4・5月号:掲載】

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