賭博と肺病―ムラ社会を描いた映画を思い出した
黒川東京高検検事長(当時)が新聞記者らと賭け麻雀をした問題が報じられ、ふと昔に見た映画を思い出した。タイトルはひどい差別語なので伏せるが、1957年の渋谷実監督の松竹作品で、内容は「とてもまともと思えないムラ社会の悲喜劇」である。
東京近郊の某農村。有力者の権力は絶対で集落のおきては国の法律より優先することさえある。取り巻き連中と日常的に賭博に興じる有力者と土地の問題で対立した男が「村八分」にされる。男の娘が肺病で死んでも、村人は一人も葬儀に来ない。娘と恋仲で東京から一時帰郷した有力者の次男は「ほとほとこの村に愛想がつきた。もう戻って来るつもりはない。自分と一緒に村を出ないか」と男を誘う。男は「ここを捨てたとて、日本中どこでもおなじ」と、この村で生きる決意をする。「賭博」と、新型コロナウイルスが引き起こす「肺炎」が、この映画を思い出すきっかけになったようだ。
約37年間記者をしてきた筆者から見ると、賭博はともかく、寝る間も惜しんで夜回りや朝駆けをして警察や検察の幹部、政治家に食い入りリーク(情報漏えい)してもらうのが仕事と思っている記者は少なくない。政治家や高級役人をヨイショすることもいとわない人たちが、特に事件取材では報道というムラ社会の主流を占めているのが実態だ。
83年4月に神奈川県で情報公開条例が制定されて以後、当時、新聞社系週刊誌の記者だった筆者は、役所から情報を得る手段として情報公開請求を使い始めた。むろん情報源としては不十分である。そこでさまざまな市民団体や公務員、学者の研究団体の集会などに出向き、法令も調べるなどして情報収集した。情報公開制度外でも、建設業許可申請書や政治資金収支報告書などは法律で閲覧が可能である。それらを「ブツ読み」(地検特捜部の捜査手法と同じ)し、現場の取材を加えて1面や社会面トップの記事も書けたのである。
近年、「文春砲」などと呼ばれ週刊誌がスクープを連発し、新聞やテレビが後塵を拝すことが多いが、新聞やテレビでも情報公開に取り組む記者が増えてきた。法的に保障された「情報公開請求権」を行使して、「不開示」や「不存在」の決定に対し、審査請求して情報公開審査会や裁判所で正々堂々闘えるのである。開示された公文書が真っ黒な「ノリ弁」であれば、記事で「こんな情報でも隠すのだ」と書けるのである。デジタル情報を活用して「脱記者クラブ」的な取材をする記者も増えているようである。
だが、こうしたやり方は今も「本流」とは言えない。この件も、新聞社自体が、記者の高級役人との賭け麻雀を「取材源の秘匿」の対象とし取材の一環と認めた。少し前になるが、某自治体首長が「5兆円の借金」という財政難を理由に教育・文化系事業の予算を削ったことがある。情報公開請求で入手した資料を使って1年分の元利償還額と金利を計算してみると、政府系からの利息は年利約2・3%、銀行系は1・5%。中には年利8・1%のものもあった。銀行に借り換えれば、単純計算で80億円は捻出でき、補助金カットも避けられるはずである。しかし、記者クラブの記者が情報公開請求した形跡はなかった。本来ならば、「5兆円の借金」の中身を検証し政策上の問題点を明らかにすべきだと思うが、政治家や高級役人を金魚のフンのように付け回し、もっぱら「政局」を追うのが仕事という認識の記者が多いように見える。
しかし、コロナ禍は、こうしたマスコミ界の〝常識〟に変化をもたらすかもしれない。医療体制のあり方、失業の増大防止、企業への支援策など真剣な政策論議の必要性がクローズアップされてきたからである。そのためにも、政策形成過程の情報公開を徹底させるという機運を高める必要がある。
【Volo(ウォロ)2020年6・7月号:掲載】
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