ボラ協のオピニオン―V時評―

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遊びと宗教とボランティア

大阪ボランティア協会ボランタリズム研究所 所長岡本 仁宏

「役に立たないのに、社会で多くの人が本気になる社会活動の領域を二つ挙げてください」
 この2領域が、「遊び」と「宗教」だと言ったのは、ホイジンガである。
 「役に立たない」というと宗教者は気分を害するかもしれない。実利宗教という言葉はあるし、家内安全や商売繁盛は実利だろう。けれど直接的実利から離れた清く美しい心での信仰が、結果として実利にもつながるということだろう。いや、まじめな信仰者が実利を超えた意味や価値を求めるのは言うまでもない。さらに、岸和田のだんじり祭や諏訪の御柱祭のように命を懸けて、巨大なだんじりを引き回したり大柱に馬乗りになって坂を駆け落ちるのは、どうしても「役に立つ」とはいいがたい(失礼!)。
 この2領域、遊びはとても自由だが、宗教の領域はとても窮屈なように見える。しかし、スポーツという遊びもルールがしっかりしてこそ面白いし窮屈な(例えば手を使ってはいけないというような論外に窮屈な)ルールまである。
 さて、こんな「役に立たない」2領域に挟まれて、まじめなビジネスの日常世界がある。実利の世界があるからこそ、役に立たない領域も可能という見方もあるだろう。しかし、ホイジンガは、この二つの世界があるからこそ、実利の世界が意味あるものとして支えられていると主張した。

 ところで、ボランティアの世界は、どこに位置づけられるのだろうか。
 ボランティアは、しばしば3要素があるといわれる。無償性・自発性・公益性である。
 ボランティアは、公益性があるはずで、「役に立たない」遊びや宗教活動と違う、ように見える。役に立つがビジネスにならない領域をNPOやボランティアが担うとは、よく聞くところだ。
 しかし、僕は、あえて言いたい。ボランティアやNPOの活動は、遊びと宗教の両方に接点を持つ活動だし、この接点の意味を失えばその価値を失うと。
 どういうことか。
 ボランティアやNPOの活動は、まず自由でなければいけない。お金からも権力からも指示され強制されることはない。この自由さは、活動の核心にある魂だ。
 他方、奇妙な神聖さもある。NPOのリーダーがカリスマ性を帯びることは珍しくない。何か宗教的オーラがある。NPOなんて、会員になれば会費としてお金を出させ、さらにただで働け(ボランティアして)となる。こんな「金も体も差し出せ!」などと正面から言える人は、現世的でない価値を表現していないとやっていけない。そういうメッセージへの共感は、NPOにとても重要ではないか。

 役に立つ証明をと言われぎりぎりと評価で締め付けられる時もある。エレガントに結果を見せお金をとるのには必要だろう。ミッション実現のため、雇用安定のため規模を拡大したい。もちろん重要だ。そういう戦略もあっていい。しかし、実利実利で動く世界は、お金と権力の力から逃れられない。NPOにとって、お金と権力は道具であって目的ではない。
 実利の世界の外れにあって、そういう力を斜めに見つつ、そんな世界を突き抜ける展望を持つ活動こそ、意味があるのではないか。
 さらに言えば、活動している人たちが楽しまなければと思う。結構真面目に真剣に取り組まないと、遊びも宗教もその醍醐味は分からない。本気で楽しむ覚悟をもって、活動をすることが、長くしかも(実利を超えて)意味ある活動を続ける秘訣なのではないか。

 まぁ、人生も長いようで短く、短いようで長い。遊びと宗教に本気になって命を懸けるのも自由だが、非営利社会活動によって、息長く境界線の活動を楽しむ生の意味も深い滋味あるものであろう。

 

参考:ホイジンガ、高橋英夫訳『ホモ・ルーデンス』中央公論新社、 2019年

 

【Volo(ウォロ)2022年4・5月号:掲載】

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