タガが緩めば差別が広がる
自民党が9月29日、杉田水脈衆院議員(比例中国)を党環境部会長に、松川るい参院議員(大阪選挙区)を党副幹事長に起用する人事を決めたという記事が、新聞各紙に掲載された。
松川氏は党女性局のフランス研修(7月)の際、パリ・エッフェル塔前でポーズを決める写真をSNSにアップし「観光旅行か」と批判を浴びたことが記憶に新しい。一方の杉田氏はといえば、アイヌ民族を侮蔑する投稿について札幌法務局から「人権侵犯の事実があった」と認定されたばかりだ(9月7日付)。2018年には月刊誌「新潮45」8月号で、LGBTのカップルに対して「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」などと寄稿して厳しく批判されたほか、ジェンダーや歴史観を巡る数々の確信犯的・捏造的言動により、裁判で賠償を命じられたケースもある(上告中含む)。岸田改造内閣で総務政務官に起用されたものの昨年12月に在任4カ月で辞任したのは、これらの言動に対する批判がやまなかったからだ。にもかかわらず「人権侵犯認定」直後、改めて党の役職に就けるとは、いったいどういう感覚だろうか。
性的少数者(LGBTQ)への理解を進める学校教育についても、東京都台東区の自民党男性区議(50)が区議会一般質問で「偏向した教材や偏った指導があれば(子どもを)同性愛へ誘導しかねない」と述べたり(9月22日付の新聞各紙)、岸田首相が直近の内閣改造後の記者会見で、女性閣僚への期待について「女性ならではの視点を生かし」と発言したりするなど、その立場や役割を思うとうんざりするような事例が目立つ。
発言自体の要因や背景としては個々の知識不足、思い込み、更新されないジェンダー観、特定の層に向けたアピール、それらがないまぜになった信念……など、さまざまなことが考えられる。だが、より大きな構図として考えなければならないのは、こうした発言を許す周囲(党や国会)の土壌であり、慣れっこになったり「仕方ない」と思ったりする社会の変化ではないだろうか。
ちょうど100年前の関東大震災についても、記者会見で朝鮮半島出身者らの虐殺について問われた松野官房長官が「政府内において事実関係を把握する記録は見当たらない」と答えた(8月30日)。この件については既にさまざまな批判的論評や誤りを指摘するファクトチェックがあり、筆者も本誌2022年12月・23年1月号の本欄で東京都の対応を題材に書いたので、これ以上は触れない。ただ、こうした言説をよりどころに「朝鮮半島出身者の虐殺はなかった」と主張する人が必ず出てくることを思えば、政府首脳の言であるだけにその責任は極めて重い。
人間には「差別はいけない」という理解と実感がある一方、区別することで所属感を満足させたり、差別する(弱い存在をつくり出す)ことで自らを優位に置こうとしたりする情動がある。差別意識を生む心理は複雑な作用の結果でもあり、単純化はできないが、人は基本的に「差別をなくす」方向で努力してきたはずだ。宗教的・倫理的な面だけでなく、差別や偏狭な区別をなくすことが部族社会的な争いを減らし、人間の安全を拡大させることにつながってきたからだと思う。
しかし、「差別はいけない」と言い続けるにはエネルギーが要る。エントロピー増大則を比喩的に当てはめるなら、常に新たなエネルギーを供給しなければ「差別はいけない」というタガはどんどん緩み、無秩序でむき出しの悪意が社会に広がってしまうだろう。
差別や差別的言動、歴史的事実を「なかったことにする」主張を、当たり前にしてはいけない。タガを締めるには力が要る。面倒で疲れるし、自分がやらなくてもと思うかもしれないが、頑張らなければせっかくの努力も無に帰し、逆回転してしまう。世界を見渡しても、今こそ質の高いエネルギーが必要な、危うい時代なのだと思う。
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