喝采だけでいい?「つばさの党」逮捕
衆議院東京15区の補欠選挙(2024年4月28日開票)で、他候補の選挙運動を妨害したとして政治団体「つばさの党」の代表らが公職選挙法違反容疑で5月17日に警視庁に逮捕された。本稿のテーマは当初「ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ=政治的正しさ)」にしようと考えていたのだが、4月末以降、他の候補に追いすがりながら大音量を浴びせる同党の選挙運動が報道されるようになり、この事象は何なのか?という問いが繰り返し頭に浮かぶようになった。
これまで漠然と前提にしていた原則、信義則のようなものが崩れ、大げさに言えば「一から民主主義を作り直さなければならないのでは」という、疲労感を覚えるニュース映像だった。逮捕された彼らは言論・表現の自由、政治・選挙活動の自由を根拠に正当性を主張しているようだ。この「正しさ」の主張も一種のポリコレなのかもしれないが、この点は次回に稿を譲りたい。
つばさの党の行動は、単に常識外れの振る舞いであるとか、過激な言動を支持する有権者を掘り起こすのが目的、あるいはSNSで配信することによって広告費を稼ごうとしている――など、さまざまに解釈することはできる。しかしもう一つ考えた方がいいのは、彼らの言動を誘発した現実のありようと、その言動が共感を呼ぶ(かもしれない)と思わせる社会のありようだ。
東京15区に自民候補はいなかったが、仮に自民が候補を出し、つばさの党が裏金問題に絞って自民候補に同じ行動を取ったら、市民の受け止め方はどうだっただろうか。現実の政治・社会のありように不満を募らせる人々の支持を一定程度集めたかもしれない。
そもそも衆院3補選の原因は、自民党によるパーティー券収入の裏金化など、不祥事による同党議員の辞職だった。3補選で自民は島根1区以外に候補者を立てず、その島根でも大差で敗れた。ではその結果をもって自民は罰を受け、不祥事の罪を償い、許されたのだろうか?
安倍晋三政権時代のいわゆる「もり・かけ」「桜を見る会」問題を含め、自民が自らの組織課題に真摯に向き合ってきたとは到底言えない。パーティー券の裏金問題を見ても、政治資金規正法の抜本的な改正に後ろ向きなことは一目瞭然で、しかも自浄を求める党内の声は響いてこない。こうした政治と金のありようを「おかしい」「変えてほしい」と願う市民の声には行き場がなく、鬱積した思いがどこに噴出孔を見出すかは測りがたい。野党やメディアの追及が「緩い」という不満もあるだろう。
逮捕については「極めて悪質な行為で当然」とみる向きが多いようだ。確かに、このような振る舞いが見過ごされるなら「この先どうなる」という気持ちは筆者も強い。それでもなお、一抹の懸念はぬぐいきれない。「恣意的な運用」である。
思い出されるのは19年夏の参院選で、安倍首相(当時)の演説にヤジを飛ばした市民2人が北海道警に排除された事件だ。逮捕こそされなかったが、2人の行為はつばさの党とさほど変わらぬ悪質さだと現場の警官は判断したのだろう。歴史的にも戦前日本の治安警察(特高警察)のように、法を恣意的に運用することで弾圧の武器とした例や、組織の要請に従ってユダヤ人を淡々と強制収容所に送り込んだナチスの官僚など、法の解釈や善悪の基準に絶対はないことを示す実例はいくらでもある。現代でも、何が違法なのか不明確な反スパイ法が制定されたり、人権派弁護士が不当に拘束されたりする中国を見ると、恣意的な法運用は歴史のかなたのことではないし、杞憂でもないことが分かる。
つばさの党メンバー逮捕への拍手喝采が、自由を縛られた市民の嘆きに暗転するかもしれない。権力の側だけでなく、自分の中にも二重基準がないか、目を凝らしたい。
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