ボラ協のオピニオン―V時評―

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再考「ポリコレ」の有用性

編集委員増田 宏幸

 自民党総裁選を経て、石破茂氏が総理大臣となった。アメリカでは11月の大統領選に向けてハリス氏とトランプ氏が激しく争っている。候補者討論会では例によってトランプ氏の根拠なき発言が再三指摘され、ファクトチェックで非常に差別的な内容が明らかになった。石破内閣でも、法務大臣に就任した牧原秀樹氏の過去のSNS発信が注目された。トランプ氏と牧原氏の発言・発信には共通点があり、内容の当否とは別に、本稿のテーマ「ポリティカルコレクトネス(政治的正しさ、政治的妥当性。以下、ポリコレ)」を考える上で格好の事例なので題材にしたい。
 

 ポリコレとは、ウィキペディアで「社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された政策(または対策)などを表す言葉の総称であり、人種、信条、性別、体型などの違いによる偏見や差別を含まない中立的な表現や用語を使用することを指す」と説明されている。筆者はポリコレの肯定的意味合いを認めるが、この一種無味乾燥な説明が、ポリコレを巡る賛否、使われ方の一因でもあるように思う。
 トランプ氏の根拠なき発言は、これまでにもさまざま取り上げられてきた。9月の候補者討論会で「オハイオ州スプリングフィールドでは移民が犬を、猫を、ペットを食べている」と述べ、市当局が否定したのは記憶に新しい。
 牧原氏については、名古屋出入国在留管理局収容中に死亡したスリランカ人女性、ウィシュマ・サンダマリさんの事件を巡る発信(2023年4月)を挙げて、東京新聞が〈遺族側弁護団が施設の監視カメラ映像を公開したことに対し(牧原氏は)「入管難民法改正反対という『政治的意図』を持っている方々が政治利用しようとしてないか。懲戒請求対象になってもおかしくない」と主張。弁護団への圧力だと批判を招いた〉と報道した(10月3日)。この人物を法相に就けていいのか、石破氏の判断に疑問符が付く。
 そんな牧原氏やトランプ氏に共通するのは、主張に共感する一定の層が存在する点だ。

 

 人は他者と自分を区別するし、自分が所属する集団や社会と、それ以外とを区別する。その点はいにしえの氏族・部族集団も現代人も、根源的に変わるところはない。人類史的に変わったのは、争いがもたらすマイナス面への反省はもちろん、社会的・学術的に「人」への理解と洞察が深まったことで、見知らぬ他者に対して感情的な警戒ではなく、理性と規範、共感で対応できるようになったことだろう。
 ただ、人には相反する考えや感情を抱く側面がある。「わかっちゃいるけど……」というやつで、例えば「外国人には来てほしくない」のが自分の本心だが、そんなことを言えば差別的人間だと思われかねない、だから何も言わない、という葛藤だ。筆者自身、朝の通勤中にのんびり歩いている外国人観光客に進路を邪魔され、舌打ちしたことは何度もある。でも、だからといって外国人を排斥しようとは思わない。それは外国人に限らず日常的に遭遇する出来事であり、その感情は「正しくない」と理性が告げるからだ。一方、トランプ氏や牧原氏の発言・発信は、誰もが持ち得る差別的な内面に出口を開き、「自分も言っていいんだ」という免罪符を与え、社会を分断し歴史(人類の歩み)を逆行させるものとして、極めて深刻な問題だといえる。
 ポリコレは「政治的」であるがゆえに、どんな立場で発言するかによって振幅が大きく、他者を排斥したり言葉狩りにつながったり、〝さわらぬ神にたたりなし〟で本質的な議論を回避する方便に使われたりもする。しかし本来は、自他を尊重しながら多様性を担保し、社会の安全性を高めるために、人間が努力して(時に我慢して)作ってきた貴重な指針ではないか。いかに本音でも「それを言っちゃおしまいよ」という言葉は確かにある。寅さんのセリフを思い、人の知恵としてかみしめたい。

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