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オピニオン「V時評」2014年度

『ウォロ』に掲載している「V時評」は、時代の一歩先を読み、新しい課題の発見や提言に努めるオピニオンです。

2016年4・5月号から2017年2・3月号
2015年4・5月号から2016年2・3月号
2014年4・5月号から2015年2・3月号
2014年3月号までの「V時評」はこちらから

V時評T【2015年2・3月号・掲載】
高齢社会と災害

 編集委員 磯辺康子

 阪神・淡路大震災が起きた20年前、高齢者の入居を優先した仮設住宅は「超高齢社会の先取り」といわれた。同じ形のプレハブが並ぶ巨大仮設団地で、高齢の 入居者は自分の部屋が分からずに迷い、被災後の環境変化で認知症が悪化する人も少なくなかった。「孤独死」が相次ぎ、見守りやコミュニティーづくりの支援の必要性が力説された。
 そして今、「先取り」といわれた現実は日本のいたるところにある。郡部では、高齢化と人口減少で集落の維持が困難になっている。「孤独死」は 「孤立死」とも言われ、都市部の団地などに共通する課題となっている。
 昨年、水害に見舞われた地域を訪れたとき、泥だらけの損壊家屋が長期間残っている理由を聞くと「空き家は解体もできないから」という答えが返っ てきた。集落では、災害前から空き家が増えており、被災した場合、亡き住人の親族や遠方の所有者の意向を確かめるのに時間がかかるという。こんな ところにも、過疎、高齢化の影響が現れてくるのだと気づかされた。
 阪神・淡路大震災の被災地では、仮設住宅から多くの高齢者が移り住んだ災害公営住宅が都市の中の「超高齢集落」になっている。兵庫県の調査で は、高齢化率はすでに50%を超え、単身高齢世帯率も46%に達する。入居時の抽選で高齢者を優先したことが大きな要因だが、社会全体が高齢化し ている現状では、住民が入れ替わっても厳しい現実は変わらない。立派な交流スペースがあっても、住民組織にそれを使いこなせる力がない。世話役を 担える人がおらず、自治会の解散に至るケースもある。
 「共助」や「互助」の大切さは分かっていても、一人一人が自分の暮らしを維持することに精いっぱいで、コミュニティーづくりの余力がないのだ。
 発生から4年を迎える東日本大震災の被災地の復興も、高齢化の問題を切り離しては考えられない。若者の流出に拍車がかかり、阪神・淡路大震災よ りさらに厳しい現実が待ち受けていることは想像に難くない。ただ、今はまだ、個々人の住宅や生活の再建という目の前の課題に立ち向かわねばならな い段階で、地域の将来像に思いを巡らせることができる人は少ないのではないか。
 阪神・淡路大震災や東日本大震災の経験から言えることは、日本の災害対策が、人口減少や高齢化という課題を念頭に置いたものでなければならない という点だ。それは、他のアジアの国々と大きく違う。防災も復興も、社会全体が若く、成長していた時代の手法では対応できなくなっている。
 近年の災害で、ボランティアやNPOといった外部の支援者の力が注目されるのは、こうした日本社会の特徴と無関係ではないと思う。普段の暮らし でも、さまざまな「支える仕組み」が必要な時代になっている。身の丈に合わない「立派すぎる」施設やインフラを整備する復興は、将来、住民にとっ て大きな負担となることを考えておかねばならない。

V時評U【2015年2・3月号・掲載】
ミラクルボランティアは、どこにいる?

 編集委員 水谷綾

 「ミラクルなボランティアがいる団体を、紹介してください」。
 あるNPOの代表からの相談で、こんなことをたずねられた。新事業をボランティアの参加で盛り立てたいという強い希望とのこと。「み、みらく る?」。戸惑い気味に聞き返すと、「ミラクルです」とおっしゃる。個性豊かなボランティアとか、スキルをもったボランティアなど、熱心なボラン ティアを見ることはあったが、「ミラクル(神技的)なボランティア?とはなんぞや……」と、一瞬、首を傾かしげてしまった。
***
 ボランティアは、派手さはないが、今、”熱い”のかもしれない。この春から介護保険の要支援者に対する介護予防給付は地域支援事業として、住民 の共助による取り組みが期待されている。各地に広がっている市民後見人制度だって一種のボランティアである。2020年の東京オリンピック開催に 向けて、東京からはもうすぐ”オリンピックボランティア”をPRしてくるだろう。国、地域をあげて、「ボランティアへの期待」がやたら熱いのだ。
 今の日本社会においてボランティア活動は特異なものではなく、どこの地域にもあって誰でも取り組める「ごく普通の活動」になりつつある。大学の 講義で学生らにボランティア活動経験を尋ねると、「高校の科目の中で受けた」と返ってくる。彼らにとってボランティア活動は、いわば公民を学ぶの と同じ「科目」であって、「問題解決」という発想はあまりない。あまり考えずとも、活動が「用意」され存在しているからだ。
 そもそもボランティアは”自由意思”をベースとした活動である。活動を始める動機やきっかけは何であれ、何かに縛られるものでもない。自分自身 が自由さを感じて、自らが選んだ行為から得られる喜びがあり、関わろうとする人の個性とか温かさがにじみ出てくる。そういった体験から自分にとっ ての何かの価値を見出したりもする。そう考えてみると、与えられるボランティア活動からは、「自由」というボランティアらしさがイメージしにくく なってきているのかもしれない。
 冒頭のNPO代表の質問は、そんな社会の現況を反映しているとも言える。彼は、やろうとしている事業にはボランティアが必要だと強く信じてい る。しかし、そこに「なぜ、ボランティアなのか」、「ボランティアにとっての報酬とは何か」、「有給スタッフとの役割の違いは?」という問いは まったくなかった。世間で、成功しているイベントや施設運営のボランティア事例を見聞きし、「これならボランティアでできる」と思ったようであ る。成功していると分かっても、それをどう運営していいのかが分からず、「無償でステキに動く人ってミラクルな人に違いない」と思って、冒頭の質 問が自然と出たのだと想像できる。
 なるほど……気分は若干複雑である。「ボランティアに、『絶対、〜しなければならない』は馴染まない」ということが通じない。ボランティアは大 事だし必要だ、と思う人は増えてきた。しかし、その中身や本質が、ほとんど語られていない。考えられていないから、語られてないのか。語っていな いから、考えられないのか……。
 今一度、私たちは、ボランティアの本質と創造性について、語ることが必要なのではないか。
 2015年―。大阪ボランティア協会は、創立から50年、つまり、半世紀を迎える。その半世紀の歩みの中でも変わらないことを、今の社会の響く 形で語りかける必要がありそうだ。世にミラクル(神技的)なボランティアがいるのではなく、市井の中の様々な思いをもった人々の心がはじけあう中 で、いくつものミラクル(奇跡)が起こるのだ、ということを何度も発信し伝えていかなければならない。

V時評T【2014年12月・15年1月号・掲載】
NPOの政治活動について

 ボランタリズム研究所運営委員長 岡本仁宏
 関西学院大学教授

■選挙にどんなかかわりを持ちましたか?
 今回の選挙にNPOはどのように関与したのだろうか。
 「選挙は政治家同士の泥仕合で我々は関係ない」?「NPOは政治に関わってはいけないから関係ない」?
 そんな声が聞こえないだろうか。特定非営利活動法人(特活法人)の理事長が偽名で政治的議論をしたことが問題となったが、その際、「特活法人は政治活動をしてはならないと
法に書いてある」などという発言が識者やブログの中であふれた。正直なところ、驚くべき無知で開いた口がふさがらない。

■NPOにとって政治活動は重要な活動
 NPOやボランティアは、しばしば政治の問題に直面する。環境保護団体は、豊かな自然海岸を破壊する開発計画に直面するかもしれない。障がい者支援団体 はバリアフリーな公共施設やまちづくりを、自殺遺児の支援団体は自殺防止のための政府政策や社会の変化を、高齢者介護事業団体は人材確保ができる介護報酬 の向上を求めたりする。
 本気で自分たちのミッションを実現しようとすれば、政府の政策や社会の振る舞いを変えたいと思うことは自然だ。しばしば、NPOは、力がなく自分たちの 状況を訴えかけられない人々(さらには、物言わぬまま消え去ろうとする生き物たち)の立場を代弁して声をあげる。そういう貴重な社会的政治的役割を、 NPOはこれまで世界中で果たしてきたし、今も果たしている。

■NPOは政治活動をしてはいけない、という真っ赤なウソ
 NPOは政治活動をしてはいけない、と言われることがあるが、真っ赤なウソである。日本国憲法は結社の自由や表現の自由を認めており、自由に団体を形成 し政治活動を行える。特活法人や認定特定非営利活動法人(認定特活)、一般社団法人・一般財団法人や公益社団法人・公益財団法人も、政治活動は禁止されていない。ただし、制限がある。この 制限を禁止と取り違えている場合があまりに多い。

■「政治活動」という場合、四つの活動を区別することが必要だ。
1.「政治上の施策」に関わる活動(政策推進・反対の活動、アドボカシー、ロビイング等)
2.「政治上の主義」に関わる活動
3.政党の支持や反対に関わる活動
4.候補者の支持や反対、つまり選挙に関わる活動(つまり選挙運動)

 一般的に言えば、法人格を持つNPOは、1を全面的にできるが、2、3、4の順に次第に強い規制を受ける。特活法人はもちろん、認定特活でも、1、つま りアドボカシー等をすることは、団体の目的としても活動としても規制なく自由にできる。2、3、4も特活法人は制限はあるが禁止されてはいない。NPO関 係者もだが、行政職員でもはっきり分かっ ておらず、単に「政治活動は禁止」ということもある。
 新公益法人については、政治活動の規制ルールが明文化されていない。したがって禁止されていないと言えるが、逆に公益認定等委員会などの裁量による示威的介入や団体による自己規制強化の可能性がある。
非常に問題が大きい。

■「アドボカシー」を「政策提言」と訳すのは間違い
 日本のNPOは、アドボカシーが弱く政策的影響力が弱いとされている。行政や企業との「協働」と言いながら、独立したアドボカシーができる力を持たないと結局指示待ちサービス機関になってしまう。
 ちなみに、「アドボカシー」を「政策提言」と訳すのは間違いだ。advocacyは「提言」だけでなく、政策的争点についての反対や推進の活動を含む。「提言」と訳すと、アドボカシーは争点をめぐる活発な政治活動の一形態であることが理解できない。

■政治のアリーナ(領域)を作りかえる法制度としての特活法人法と新公益法人法
 政治活動と言えば、プロの政治家による選挙と政党政治しか思い浮かべら れないとすれば、それこそ日本の政治の世界が狭すぎることの証明である。市民社会が、日常的に説得力ある有意義な政治活動を行える力を付けることは、よい社会的変化をもたらすために不可欠だ。特活法人法や新しい公益法人法は、政治のアリーナ(領域) を作りかえ得る画期的な法体系の出現であることを確認したい。

V時評U【2014年12月・15年1月号・掲載】
JVCC「参加の力」が活きる社会づくりへ

 編集委員 早瀬昇

 来年2月28日(土)、3月1日(日)に開かれる「全国ボランティアコーディネーター研究集会(JVCC)2015」の開催要項が、このほど完成し、参加者の募集が始まった。
 この集会が最初に開かれたのは1994年10月の大阪。終了後、「来年は東京で再会を」と言って全国に戻った参加者たちが、その3か月後、阪神・淡路大震災で、急遽、再会することになる。被災地東部で活動した日本初の災害ボランティアセンター「被災地の人々を応援する市民の会」の応援スタッフとして、交代で被災者の要望を受け止め、ボランティアが活動するプログラム作りに関わったのだ。

 「市民の会」には、のべ2万1千人のボランティアが駆けつけ、4千800件の応援依頼が寄せられたが、経験豊富なボランティアコーディネーターの力で、機動的で創造的な復興応援活動が展開された。そして、この取り組みを経て、ボランティアコーディネーターという専門職の認知度も高まった。
 その後、JVCCは、毎年度、開催されてきたが、来春のJVCCでは新たなテーマ・切り口の分科会が多数設けられ、市民活動で焦点となっている課題が見えてくる。そのいくつかを紹介しよう。

 たとえば、来年度から「生活困窮者自立支援事業」が始まるが、これを市民の参加を得て推進する実践事例を検証し、厳しい暮らしを余儀なくされている人々を地域で支える取り組みを考える分科会。社会制度と市民の活動がどんな関係を結ぶべきかが、事例を通じて検証される。
 今、社会福祉法人のあり方が問われているが、ボランティアの参加を通じて地域住民との関わりを深め、地域全体の社会資源として活動する福祉施設のあり方を探る分科会。ボランティアが単なる無償の人材としてではなく、組織を「公共財」として開いていくカギとして注目されだしている。
 一方、市民活動には特定のテーマを選ぶ活動と共に、自治会などの地縁組織で進められる活動もある。従来、ともすれば「やらされる」感を抱く場合も見られたが、最近、「地域の経営者」としての自負をもち創造的な地域活動を進める事例もでてきた。こうした実践に学ぶ分科会。地縁組織がボランタリーな組織として活躍するインパクトは大きい。

 また、ボランティアの参画をテコに資金確保策である「ファンドレイジング」を進める事例をもとに、市民参加型のファンドレイジング計画を立案する分科会。お金と活動という2つの参加で相乗効果を生み出す取り組みが広がっている。
 これらはほんの一部だ。医療、災害対応、多文化共生、まちづくりなどでの活動推進、企業ボランティアの推進、イベントでのコーディネーション、最近の若者気風をふまえた対応、人材育成、住民コーディネーター、スポーツボランティア、子どもの貧困対策、ソーシャルビジネスとの接点、地縁型活動とテーマ型活動の連係など、2日間に26の分科会が設定されている。開催要項を見ているだけで、市民の参画によって多様な課題が解決される未来が見えてきそうだ。

 このような可能性を感じさせるのは、市民の自主的・主体的な参加がもたらす改革力、いわば「参加の力」を実感できるプログラムばかりだからだろう。
 人々が自発的に問題解決に参加すると、他人事ではないという「当事者意識」が高まる。自らの得手を活かし創意工夫も進む。目標とする夢の共有や同志としての共感により、違いを受け入れ合い、幅広い連携が広がる。自ら取り組もうという姿勢は臨機応変で柔軟な対応を生みだす……。

 そして、この「参加の力」が活きる環境を整えるのがボランティアコーディネーターだ。JVCCは、ボランティアコーディネーターという職名の有無に関係なく、社会活動への市民参加推進を実践している人、分科会に課題意識をもち参加できる人なら、誰でも参加できる。例年200人を超える参加者が集うが、全国の参加者と、市民の「参加の力」向上に関するイノベーションを学び合いたい(申込締切は来年2月6日まで)。

V時評T【2014年10月・11月号・掲載】
地方議員を「見て」選ぶ 〜質向上へ、できることから

編集委員長 増田宏幸
 「号泣県議」のインパクトは絶大であった、と改めて思う。地方議員による不明朗な政務活動費の使途、行政職員への口利きや顔利かせ、あるいは威迫といった問題は、いつから存在しているか分からないほど古くからあった。にもかかわらず、我々は無関心だったり鈍感だったり、何となく見過ごしたり、諦めたりしていた。それが彼によってかつてないほど白日の下にさらされ、多くの人の関心を集めた。議員諸氏は今、注がれる厳しい目を意識しているだろうし、過去の不正が露見しないか、戦々恐々としている人もいるかもしれない。だが本質的には、どうすれば「喉元過ぎれば……」とならないか、予防を考えることが大切だ。
 違法・不正な行為をなくすには、何より議員の質を高めることが必要だろう。号泣県議だけでなく、近々には東京都議会のセクハラ野次、大阪府議のLINE問題など、議員の見識や資質を疑わせる出来事が相次いだ。筆者の住む金沢市でも、市議会副議長が飲食店の女性経営者を殴るなどして傷害容疑で逮捕され、今年8月に議員辞職する事件があったばかりだ。そもそも、こうした議員を当選させない術はないものだろうか。
 有権者からすると、候補者の良し悪しを判断する情報、特に悪い情報が少ないという課題がある。新聞、テレビなど「マス」なメディアは、マスであるがゆえに公平性を求められる。特に告示後は、明白な事実や証拠がない限り、特定の候補者にダメージを与えるような報道はできない。号泣県議などは、後から見れば明らかに不適格に思えるが、仮に気づいても取材する側の印象や憶測だけでは報じられない。メディアや警察に悪意があり、選挙前に事実無根の報道や逮捕があった場合を考えれば、やむを得ないことではあろう。
 ではどうすればいいのか。単純ではあるが「百聞は一見にしかず」、有権者が候補者を直接見るのが最も有効ではないだろうか。
 筆者は学生時代に東京で、ある市議の選挙運動に関わったことがある。時は1987年4月、中曽根内閣による売上税創設が最大の争点となった統一地方選だ。その選挙運動で目にしたのは、売上税について極めて知識に乏しい候補者の姿だった。街頭演説では、支援を受ける政党が作ったパンフレットを手に持って棒読み。しかも所々つかえるため、横で見ていてハラハラするほどだった。ところが演説を聴く有権者は一人もおらず、声は虚しく団地の壁に反響するのみ。関心がないと言ってしまえばそれまでだが、候補者を目の当たりにすれば得られる情報は多いのに……というのが実感だった。
 また、当時はメディアと言えば「マス」しかなかったが、今は違う。有権者はツィッターやフェイスブックなど情報の発信・拡散ツールを手にし、ネット選挙も解禁された。虚偽や誹謗中傷でなければ、特定の候補者を落選させるための運動もできる。国政選挙では既に功罪含めて実例があるが、地方選挙でこそ活用できないだろうか。実地に候補者を見て、自分の判断を発信する。受け取る側は、書き込みの内容や言葉遣い、発信者の属性など、読み取れる全ての要素から信頼性を判断する。個人では限界があっても、多くの人が参加することで有効な情報ネットができる。疑問があれば、自ら確かめに行けば良い。
 NPOも、地域福祉や街おこしなど団体のミッションに沿って候補者の政策・主張をチェックできるだろう。それに関する論評は法に抵触するものではないし、有権者にとってより現実的で、質の高い情報になり得る。
 30年前と比べ、地方議員や地方議会も相当に変化しているのは確かだ。旧態依然たる「旦那の名誉職」とは一線も二線も画し、市民の立場で政策本位に活動する人が増えた。それでも、この流れをもっともっと強めなければならない。少子高齢化を背景に消滅自治体が取り沙汰される中、地域の未来に関与するプレーヤーがボンクラでは、先行きが思いやられる。来春は統一地方選。何より有権者、当事者自身の問題だ。

V時評U【2014年10・11月号・掲載】
「ボランティアが足りない」が伝えること、伝えないこと 〜広島土砂災害支援の現場から

大阪ボランティア協会 事務局長 水谷綾
 8月20日に広島市安佐南区八木地域を襲った土砂災害は、都市型の局地的災害であるため、山の麓を走るJR可部線は9月上旬に復旧し、ボランティアが現地に入りやすい状況になった。しかし、実際の現地は急なこう配と細い道で重機や土砂を運ぶ車両が通るのも困難で、周辺地域には大きな駐車場もないため、地域に馴染みのないボランティアが活動しやすいものではない。
 そんな状況であるにもかかわらず、発災直後から地域の悲劇を伝えるメディアは過熱し、8月末に駆けつけたボランティアは2500人以上に及んだ。発災から1カ月が経った時の報道も然りで、「被災地では多くのボランティアの支援を求めている。昨日まで延べ3万7000人以上、土日の多い時は1日3000人のボランティアが参加してきたが昨日は約900人にとどまった」(9月20日の「報道ステーション))といった具合だ。そこには、「どこの誰が」「どういう手助けを求めているのか」「『多く』というが、具体的な程度は」といった本質は示されず、「足りない」という言葉が先行し、どういうニーズがあるかはあまり触れられていなかった。
 しかし「地域」は違った。八木地区の住民で、安佐南区で障がい児発達支援センターとボランティアセンターを運営するNPO法人ひゅーるぽんの代表・川口隆司さんは、発災直後から団体のFacebookを通じて被災地域の様子を丁寧な言葉で綴っている。今回の災害では、被災直後から地域の人々による助け合い活動が機能したこと、避難所や施設がミニ・ボランティアセンター機能を発揮したこと、また、自治会関係者と災害ボランティアセンターのスタッフが協働してニーズを拾うといった地域の動きを詳細に伝え、東日本大震災での経験との違いも解説するなど、とても細やかな当事者ならではの発信にはっとさせられるものがあった。
 広島市の災害ボランティア本部も、災害ボランティアセンターに寄せられるニーズをもとにボランティアの必要数を日々発信し、ボランティアへの注意事項や今のニーズの動きなどを逐一アップしてきた。被災現場を支えるためには、数が大事とはいえ、数さえ投入されたらすべてが解決、とはならない。様々な人が出入りする現場は、ボランティアが担える復旧作業の内容や受け入れ可能な物理的な環境整備まで熟慮する必要があるからだ。
 私自身、9月中旬に安佐南区災害ボランティアセンターの運営支援に入り、「足りない」という声に個別に接したことが幾度かあった。しかしそれは「数が足りない」とは少し違う。どちらかというと、ボランティアへの対応や周囲の環境変化による疲労感、地域の「次」が見えないことへの苛立ち、生活再建に向けた不安な心情など、様々な心情が入り混じっていて、「今までの支援が終わってしまう」不安に寄り添うことが必要であった。
 これら個別の発信や声に、光が当てられることがほとんどなかったことの要因は何だったのか、改めて考える必要がありそうだ。
 復旧時の被災地は、非定型そのもの。ある『型』を当てはめようとすると無理が生じる。「悲劇的だ」「状況が悲惨である」といった伝え方だけでは、ある一面を捉えたことにしかならない。被災地を2日くらい歩けば、他に伝えるべきことがあったのではないか。数値を示すだけなら、行政情報で十分だろう。住民が助け合いながら元気を取り戻す風景、避難所や町会のエリア拠点でのボランティアと地域の方とのふれあいなど、ボランティアの動きがどう地域に作用したか、も伝えてほしい。泥がなくなった公園に、子どもたちが戻ってきた風景がそこにはある。この風景を取り戻していくのに、本当に足りないことは何かをもっと拾い上げて、メディアは伝える必要があるのではないだろうか。

V時評T【2014年8・9月号・掲載】
「市民の記録」の意味

編集委員 磯辺康子
 東日本大震災の特徴の一つは、市民による記録が数多く残されていることだろう。デジタルカメラやスマートフォンの普及で、映像や写真は膨大な数に上り、インターネットを活用すれば自ら世界に発信することも可能になった。そこが、19年前の阪神・淡路大震災とは大きく違う。
阪神・淡路大震災当時、携帯電話を持っている人はほとんどいなかった。写真の多くはフィルムで撮影され、さまざまな団体の記録も印刷物が中心だった。
 一方で、公的機関だけでなく、市民が記録を残す活動が盛んになったのは、阪神・淡路大震災がきっかけだったともいえる。それは「ボランティア元年」といわれた動きと無縁ではないだろう。過去の災害に比べると、政府や自治体ではなく、市民の視点で災害像や復興過程を捉えた記録が飛躍的に増えた。
 その一つに、民間団体「阪神大震災を記録しつづける会」が震災から10年間、発行し続けた手記集がある。会は神戸市内で翻訳・出版の会社を営んでいた故高森一徳氏が、震災直後に立ち上げた。10年間で10冊発行すると決め、毎年、手記を公募。合わせて434編が掲載された。
 「市民の記録」には重要な意味がある。その一つが多様性だ。
 「記録しつづける会」は、被災者に限らず、国内外の多様な人々から手記を募った。ボランティアとして被災地に入った人がつづった文章もある。その中で、印象的なのが「何もできなかった人」の手記だ。
 震災直後、友人2人と車で神戸に向かった神奈川県の男性は「私たちの心は妙な正義感と、失礼ですが、お祭り気分に満たされていました」とつづる。だが、自身に必要な物資も用意せず、とりあえず被災地に入った彼らは、テレビ画面ではない生身の被災者を前に「私たちに何ができるのだろう」と自問する。そして、結局何もせずに引き返す。
 彼らのように「活動しなかった人」の存在は、ボランティア団体の記録には残らない。もちろん公的な記録にも残らない。しかし実際には、そういう人も少なくなかったのではないか。
 「記録しつづける会」に手記を寄せた中には、直接の被害を受けていない人も多い。被災してうつ病を発症した父を、東京で案じる娘。単身赴任先の神戸から岡山に戻って「後ろめたい」という夫を、心配しながら見守る妻。震災は、被災地外の人々の暮らしにもさまざまな形で影響を及ぼすことが分かる。
 こうした「普通の人々の体験」は、災害の危機が何気ない日常の中にも潜むことを伝える。津波で家族や家を失うような経験は「非日常の出来事」と捉えられるが、日々の暮らしの延長にあるような経験は、読む人に「自分にも起こるかもしれない」という感覚を芽生えさせる。
 公的な記録は、無味乾燥なデータと表面的な内容になりがちだ。しかも、どちらかといえば成果が強調される。被災者から見た災害の姿とずれていることも多い。そういう意味でも、市民自らが記録を残す意味は大きい。
 災害から年月を経るごとに記録は減少していく。一方で、被災者が抱える課題は変化し、深刻になっていく場合もある。東日本大震災の「市民の記録」は、私たちに多面的な震災の姿を教えてくれるが、直後の被害の記録だけでなく、長い復興過程をしっかりと残していく必要があるだろう。データが膨大だからこそ、散逸させない努力も欠かせない。
 私たちは何のために記録し、発信するのか。受け取った人々にどう生かしてもらうのか。だれもが記録できる時代になったからこそ、自分が書き、撮影し、伝える意味を立ち止まって問うてみることも必要だと思う。

V時評U【2014年8・9月号・掲載】
サイレント・プア/無縁社会を考える

大阪ボランティア協会 理事長 牧里毎治
 この4月から6月にかけて放映されたテレビドラマ『サイレント・プア』(NHK総合で全9回放送)を視聴されただろうか。深田恭子さんが主演したコミュニティ・ソーシャル・ワーカー(CSW)の物語である。東京下町を舞台にゴミ屋敷の高齢者やひきこもりの青年たちの支援を社会福祉協議会(社協)に勤務するCSWの「里見涼」が市役所の地域福祉課職員や民生委員、近隣住民たちと協力し合って展開するストーリーである。さりげなく地域福祉や民生委員の言葉が飛び交い、社協の看板が映像の背景に登場し、社協やCSWの名称が頻繁にセリフに出てくることは地域福祉に関係する視聴者の一人として嬉しい気分にさせられる。しかし、この放映をただ喜んでいいと暢気なことを言っているわけにはいかない。このドラマは生活困窮をテーマにしており、無縁社会の一面を鋭く抉り出している作品だからである。
 制度の谷間にこぼれ落ちて、福祉関係者や行政職員の訪問を拒んだり、近隣住民とトラブルを起こしたり、あるいはセルフ・ネグレクト(自己放棄)による引きこもりのために存在すら無視されている事例など満載である。ドラマ仕立てなので、やや誇張されすぎた筋書だという面もないではないが、現実に起きている生活困窮への取り組みであり、物言わない住民が想像以上に現代社会に存在していることの警鐘にはなっている。このCSWが活躍するシナリオの素材は、実際に大阪府豊中市で取り組まれている実話である。
 貧困の諸相には経済的貧困だけでなく、健康問題や文化的貧困など複合的に問題を合わせ持つことが古くから指摘されてきたが、今日的な様相としては社会保障制度や社会福祉制度が生活困窮者を結果として排除してしまうという現実がある。貧困は伝統的には個人や家族の責任とされ、そのイデオロギーとの闘いの成果物として社会保障や社会福祉は制度化され、福祉国家の基礎として確立したにもかかわらずである。生活技術の未熟さや意思疎通の困難さ、人間関係のつまずきなど個人的属性をきっかけに、申請手続きや事務処理の煩雑さ、資格要件の厳格さの壁などが、生活を支援するはずの社会制度から、生活困窮者を排除してしまう結果を招くのだ。無縁社会の谷底に社会的にサイレントで脆弱な人びとを引き込んでしまう現象は、まさに市民社会の基盤である社会関係の崩壊や弛緩が、特定の階層をターゲットにして、貧困と絶望の淵に静かに何事もなかったかのように連れ去ってしまう不気味な現実を物語っている。
 無縁社会とはうまくネーミングしたもので、職場を失い、家族や仲間を失い、近隣関係も失う孤立無援のネットワーク喪失状態を表している。この世には誰にも気づかれずに、つながりもなく市民社会の谷間に棲息している人たちが存在していることに気づき、ソーシャルキャピタ(社会関係資本)とよばれる社会の絆、信頼、連帯、協働するネットワークが劣化し崩落しつつある市民社会そのものを再生させることが市民活動に求められている。
 「生活困窮者をもう一度、市民社会に生還させる支援が必要だとしても、差別と格差の蔓延する現代社会に戻すだけで解決したといえるのだろうか」という根本的な問いかけをこのドラマは語っていた。もの言えず、絶望に打ちのめされ、自分の存在を訴える術も資力も持たない危うい立場に立たされている人びとがいる。個人の責任、家族の責任で済ませてしまう今日の無縁社会は、社会のお荷物、厄介者とされやすい生活困窮者を無情に切り捨てる態度を温存し、普通だと思っている住民をも脆弱な順番に捨て去り、いつかは弱い市民である「私」も人知れず葬っていく市民社会なのだ……と知るべきなのだ。

V時評T【2014年6・7月号・掲載】
「自助・互助・共助・公助」論の危うさ  ―介護保険制度改革を前にして

編集委員 牧口 明
 介護保険制度が発足して来年で満15年。それにあわせて現在、制度の大改革がおこなわれようとしている。そのポイントは、団塊の世代の全てが 75歳の後期高齢者入りする2025年を目標年度とする「地域包括ケアシステムの構築」である。多くの問題があるこの構想の中で私たちボランティ アや市民活動の立場から注目(警戒)しなければならないと思えるのは、地域包括ケアシステムの五つの構成要素(@)の一つ「生活支援・福祉サービ ス」事業において、自助と互助が異様なまでに強調されていることである。
 曰く、「支援を必要とする軽度の高齢者が増加する中、生活支援の必要性が増加」するので、「ボランティア、NPO、民間企業、協同組合等の多様 な主体が生活支援サービスを提供することが必要」である。また、高齢者自身も、「社会参加・社会的役割を持つことが生きがいや介護予防につなが る」ので、生活支援の担い手として参加することが必要である。
 このような認識に立って、「ボランティア等の生活支援の担い手の養成・発掘等の地域資源の開発やネットワーク化などを行う」生活支援コーディ ネーターを配置するというのである。
 ここで言われている生活支援の内容は欄外注(A)の通りであり、これらの取り組みを市民・住民が自発的におこなうことには必ずしも異を唱える必 要はないかも知れない。しかし、それを政策化して、本来行政(国)がおこなうべき施策を放擲して「鉦や太鼓」で称揚するとなると話は大分違ってく る。
 この点に関して実は、気になる動きがここ数年、厚生労働省を中心に広がっている。それは、従来社会福祉や社会保障の分野で使用されてきた「自 助・互助・公助」あるいは「自助・共助・公助」という枠組みを組み替え、用語の定義を変更しようとする試みである。
 この動きが顕在化したのは2006年5月に出された「今後の社会保障の在り方について」(B)で、そこでは、枠組みとしては従来からの「自助・ 共助・公助」を用いながらも、その中での共助の意味を単なる助け合いでなく、「リスクの分散システム=社会保険」として、従来は「公助の一形態」 とされてきた社会保険を共助と位置づけることで、社会保険及び共助の意味づけを変更したのである。この変更は、以後、厚生労働白書等にも引き継が れて今日に至っている。
 このような共助の意味づけの変更をさらに推し進めているのが、今回の介護保険改革と深い関わりを持つと思われる地域包括ケア研究会(C)の報告 (2009年、2010年、2013年)で、当初より「自助・互助・共助・公助」の枠組みを提示し、「互助=インフォーマルな相互扶助」「共助= 社会保険のような制度化された相互扶助」としている。
 この研究会報告で注目すべきは、昨年の報告書の中で「少子高齢化や財政状況を考慮すれば、(共助と公助の=筆者挿入)大幅な拡充を期待すること は難しいだろう。その意味でも、今後は、『自助』『互助』の果たす役割が大きくなっていくことを意識して、それぞれの主体が取組を進めていくこと が必要である」と述べられていることである。
 つまり、前述の地域包括ケアシステムにおける自助や互助の強調は、そのような文脈の中で語られているということなのである。
 今後、全国のボランティアセンターや市民活動センターに、地域包括ケアシステムの中核組織と目されている地域包括支援センターから「ボランティ アの発掘」や「地域資源の開発」などについての協力依頼が持ち込まれることになると思われるが、安易な協力は公的サービスの後退を助長し、高齢者 の生活を脅かしかねないことを認識しておきたい。

@「医療・看護」「介護・リハビリテーション」「保健・予防」「生活支援・福祉サービス」「住まいと住まい方」の5つがあげられている。
A見守り、安否確認、外出支援、買物・調理・掃除等の家事支援、などのことであり、地域サロンの開催なども含まれる。
B小泉内閣で官房長官の私的懇談会である「今後の社会保障の在り方に関する懇談会」が出した報告。
C厚生労働省の「老人保健健康増進等事業」の助成事業として2008年度にスタートし、以後、同様の助成を受けて第2次、第3次の研究会が継続さ れてきた。事務局は三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社が務めている。厚生労働省のホームページにその報告書が掲載されている等、厚生 労働省とのつながりは深いように思われる。

V時評U【2014年6・7月号・掲載】
法人税減税、NPOには増税!?

編集委員 早瀬 昇
■経済の地球規模化で法人税減税競争
 冷戦終了後、それまで東西ブロック内で完結していた経済のグローバル化が加速。企業は国境を越えて活発に活動するようになり、国家間での企業誘 致競争が進み、法人税の切り下げ競争が起こった。日本の法人税は80年代までは他国とほぼ同水準だったが、90年代にアジアや欧州で法人税の引き 下げが進み、日本も徐々に減税してきた。しかし今、アメリカを除くと法人税率の高い国になっている。
 日本の法人実効税率は35・64%(東京都)。アメリカは40・75%(カリフォルニア州)でさらに高いが、フランス33・33%、ドイツ 29・59%、中国25%、韓国24・2%、イギリス24%、シンガポール17%と、いずれも日本より低いのが現状だ。
 そこで「日本企業が国際競争で不利になっている」「このままでは企業が日本から他国に移ってしまう」といった産業界の声を受け、安倍政権は数年 内に20%台への法人税減税を行う方針を決めた。

■法人税減税でNPOにとばっちり?
 ただし、法人税を1%減税すると、約4700億円の税収が減るとされており、代替財源の確保は不可避だ。
 そこで政府税制調査会では、社会福祉法人が実施する介護事業や保育事業の非課税扱いを廃止するなど非営利団体への課税強化も検討を始め、以下の ように市民活動に関わる検討もなされている。
@公益性のある非営利法人は原則非課税だが、営利企業と競合する事業は「収益事業」として課税される。この収益事業(現在34業種)の範囲を拡大
A非営利法人に適用されている軽減税率を企業の税率に近づける
B認定NPO法人の「みなし寄付金」(収益事業の資産を非収益事業に移すと収益事業の損金とみなす制度)の廃止
C公益法人や社会福祉法人の利子等の金融資産収益への非課税の廃止
D企業が認定NPO法人等に寄付した場合の損金算入限度額の見直し、などだ。
 さらに与党税制調査会でも
E認定NPO法人等への個人寄付は税額控除(納税額から直接控除)と所得控除(課税所得から控除)の選択制だが、これをどちらかに一本化するかどうか
を昨年末に懸案として挙げている。

■もしNPO関連増税がなされたら……
 もしこれらの増税策が実施されると、市民活動は大きなダメージを受けることになる。
 @Aは課税強化であり、Bは利益の上がる事業によって赤字の公益事業を進める体制が取りにくくなり、さらに事業収入中心のNPOが市民の共感を 得ていこうとする誘因を失わせてしまう。みなし寄付金が適用される認定NPO法人になるには3000円以上の寄付金を100人以上から得る必要が あり、この要件は事業型NPOが市民に共感される団体となる動きを後押ししてきた。その動きが止まってしまうからだ。またCは助成財団の運営を圧 迫し助成金の減少につながり、Dも企業からの支援を抑制する。
 Eも平均的な所得の人々にとっては控除額が多い税額控除がなくなりかねず、せっかく高まりつつある市民の寄付への意欲を萎えさせてしまう。

■まず企業課税の歪みを正すことから
 日本では企業の73%が法人税を納めておらず、この率は4割台にとどまる英米や韓国に比べて極めて高い。黒字でも過去の赤字分で納税を免れる例 が多く、各種の控除制度もあるためで、一部の企業に負担が偏っていると問題となっている。
 その上、税金に社会保険料負担も加えた社会的負担では、日本の企業負担は他国に比べて重いどころか逆に軽いという指摘もある(『日本の企業』中 公新書)。
 むしろNPOへの企業寄付の損金算入限度額は米国の4分の1程度に抑えられているなど、NPOの活動を促進する税制には、まだまだ課題が残って いる。
 結局、法人税減税の代替財源は企業課税の歪みを正すことで確保するべきで、NPO活動促進税制は、さらに充実させるのが本来のあり方であろう。

二つの多様性を目指して〜ウォロ隔月化にあたっての決意(2014年4・5月号・掲載)

編集委員 増田宏幸

■内容・判型刷新、11年ぶり大改革
 ウォロが今号から新しくなった。1966年に「月刊ボランティア」として創刊され、2003年1月号で「Volo(ウォロ)」に改題、判型もB5判からAB判に改編した。半世紀近い歴史の中では他にも様々な改革を重ねているが、今回の刷新は11年ぶりの大きなものだ。判型はA4判となって若干「背」が伸び、表紙以外にもカラーページを導入した。内容では特集の充実を最優先課題に、各コーナーについて一から検討した。新たな企画を立てると同時に存続コーナーも俎上に載せ、V時評は次号から2本立てとなる。今後も読者の評価を待ちつつ、より良い誌面への改革を続けたい。
 と、ここまではリニューアルのプラス面、あるいは積極的な側面と言える。半面、発行回数が年1回から隔月の6回に減るのは、正直に言って編集委員会の態勢に負うところが大きい。編集委員(奥付ページにメンバー一覧)にはそれぞれ本業があり、関わる活動を持っている。誌面の方針を決める編集委員会は毎月1回、午後7時から2時間ほど。ここで先々の号を含めて特集内容を検討し、取材・執筆者を決め、各コーナーの取材相手や、原稿を依頼する外部筆者の人選などを討議する。
 東日本大震災以降、発行元である大阪ボランティア協会や個々の編集委員が被災地支援に注力したこと、また大阪府政・市政改革の余波で協会事務所の移転(市民活動スクエアCANVAS谷町を開設)を余儀なくされたことなど、取材・編集態勢にも影響する出来事が続いた。発行遅れが次第に常態化し、「このままでは誌面の質も維持できない」というのが編集委員の共通認識となった。こうした隔月化の背景を、まず読者の皆様に報告したい。ただ、この発行回数減も、ウォロのような市民メディアとしてはプラス方向で考えたいと思っている。いきなり話が跳んで恐縮だが、日韓関係を題材に以下、その理由を述べたい。

■韓国ドラマで描かれる「民心」とは
 韓国の時代劇を見ていると、必ずと言っていいほど「民心」というセリフが出てくる。例えば「王様、それでは民心が離れてしまいます」とか「民心こそ王が頼るべきものです」といった具合だ。「民心」の効果は絶大で、日本なら為政者が都合良く解釈しそうなのに、韓国ドラマでは善玉も悪玉も大いに民心を尊重する。時代劇とはいえ制作者・視聴者は現代人であり、ドラマもその考え方や期待を反映しているだろう。韓国では戦後長く強権的な政治が続き、93年の金泳三(キム・ヨンサム)大統領就任でようやく文民政権が実現した。日本のドラマに世相が反映されるように、韓国には「民心=民主」に対して極めて強い思いがあるのを感じる。
 では、現在の慰安婦問題を中心とする日韓関係に、民心はどう関わっているだろうか。一つ目は、韓国政府が民心を制御できないという点だ。朝鮮半島は日本の統治によって戦争に巻き込まれ、多くの犠牲を生んだ。戦後は南北分断、朝鮮戦争があり、塗炭の苦しみを嘗なめた。一方で日本は、敗戦によって朝鮮半島と台湾、満州、南洋諸島、樺太、千島列島などを失ったが、韓国や中国から見ればそれらは本来の日本ではない。ドイツは東西に分断されたのに、日本は米国の庇護の下、沖縄返還を実現し、経済的繁栄を達成した。韓国国民からすれば「日本は過ちの代償を支払っていないではないか」――という思いがあるだろう。そして民心がそうである以上、尊重せざるを得ないのが政府の立場だ。日本の感覚とはかなり違いがあると思う。
 一方で日本人の中には、日本も原爆や空襲で焦土となり、莫大な犠牲を払った。戦後は連合国軍に長く占領されたし、独立回復後はODA(政府開発援助)などで韓国や中国の復興・成長に大きく寄与した――と考えている層がある。もちろん日本の来し方に思いを致す人も多いが、相手国の感情や国柄まで考えないと、このすれ違いは容易に埋まらないだろう。

■日韓関係にみるメディアの役割
 民心が日韓関係に関わる2点目は、メディアの問題だ。韓国政府が認識する「民心」とは、何だろう。報道は本当に民心を反映しているだろうか。韓国ほど民意が尊重されない日本でも、報道が政策に響かないことはない。増税が良い例だ。どの党も選挙への悪影響を懸念し、「ばば抜き」のように責任を押しつけ合う。「負ける」と判断する根拠の一つに、世論調査を含む報道がある。韓国政府も同じか、それ以上に報道を民心として意識しているに違いない。でも増税の是非はさておき、報道の論調が反対であっても大多数が「拒否」とは限らない。逆に「容認」ムードがつくられたとしても、誰もが支持しているのでないことは、周囲を見れば分かることだ。
 日本人が認知する韓国の「民心」は、韓国の報道を日本のメディアが報じたものが大半だろう。つまり、民心は二重のフィルターを通って日本人に届く。韓国人が受け止める日本の民意も同じだ。では日本人の大半は韓国を毛嫌いしているだろうか? そんなことは全くない。ヘイトスピーチに反対する人もいれば、韓流ドラマが好きな人も多い。恐らく韓国でも同様だろう。ただし、今の状況が続けば感情は悪化していく。双方の民意を正しく捉え、関係を正常化するには、マスメディアの報道やブログ、書籍などの主張に対する高度なリテラシーが必要だ。努力を続けなければならない。

■「マス」とも「極論」とも違う切り口で
 ここで「ウォロ隔月化をプラス方向に」という論点に戻りたい。決めるまでに何度も議論を重ねたが、根底にあったのは「発行に追われるより、中身の濃い誌面を届けたい」ということだ。外交はウォロのテーマになりにくいかもしれないが、マスメディアとも、ネットの極論とも違う切り口で発信していくことはできる。それは生物多様性ならぬ「メディアの多様性」を担保することにもつながる。併せて、思考停止や一面的な考え方に陥らないよう、読者に多様な視点を提供する。この二つの多様性が、市民メディアが存在する価値だと思う。そのためには編集委員が十分に学び、考え、議論を深める必要がある。それが隔月化の理由であり、ウォロの目指す方向であり、決意としたい。

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社会福祉法人大阪ボランティア協会 市民活動総合情報誌『ウォロ』
〒540-0012 大阪市中央区谷町二丁目2−20 2階
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TEL 06-6809-4903、FAX 06-6809-4902
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※この事業は、運営経費の一部を「大阪府共同募金会」の助成を受けて実施しています。大阪府共同募金会

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