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オピニオン「V時評」

『ウォロ』に掲載している「V時評」は、時代の一歩先を読み、新しい課題の発見や提言に努めるオピニオンです。

2020年4・5月号から2021年2・3月号
2019年4・5月号から2020年2・3月号
2018年4・5月号から2019年2・3月号
2017年4・5月号から2018年2・3月号
2016年4・5月号から2017年2・3月号
2015年4・5月号から2016年2・3月号
2014年4・5月号から2015年2・3月号
2014年3月号までの「V時評」はこちらから

V時評【2021年10月・11月号:掲載】
政治と政策を動かす 選挙以外のバイパス≠

編集委員 増田 宏幸

 菅義偉首相が自民党総裁選への不出馬を表明し、在任約1年で総理・総裁を退いた。菅政権の発足当時、首相個人のトップリーダーとしてのビジョンや、政権の成立過程に強い疑義を覚えた筆者は、昨年10・11月号の本欄で批判的立場から菅政権を論評した。少し長いが要約・引用して当時を振り返ると同時に、政治に対して市民の側から何ができるのかを改めて考えてみたい。

 1年前に問題点として挙げたのは主に次の3点だった(大意)。
 @菅首相は日本学術会議の会員任命で6人を推薦名簿から外し、しかも理由を説明していない。政権が決めた政策の方向性に反対する省庁幹部には「異動してもらう」とも明言し、「忖度せよ」の一層の拡大が懸念される。
 A統制色を強める一方、菅首相が目指す大きな政策は見えない。総裁選立候補も政権構想も表明していない段階で二階・麻生・竹下・石原各派と、安倍前首相が所属する細田派は大挙して菅氏を総裁候補に推し、「安倍継承」を既成事実化した。政権党の国会議員は国民の代表として役割を果たしたと言えるのか。
 B菅政権が引き継いだ安倍前政権の負の側面は、集団的自衛権行使を閣議だけで容認してしまったことをはじめ、熟議を軽視した国会運営、公文書の恣意的な扱いなど多数ある。その点への自省・反省がなければ、政策決定の不透明さ、説明の回避(拒否)、明示されない忖度の勧奨がさらに強まる。
 これに続き筆者は「市民の側はどう対抗すれば良いのだろう」と自問し、「与党は高支持率を背景に、年内(2020年内)にも解散・総選挙に打って出るとの観測がある。忖度の広がりで市民の自由が窒息死しないために、健全な社会を失って後悔しないために、一票の使い方を含め確固たる意志を示したい」と書いた。この考えは現在も変わらない。ただ、新たな自民党総裁(新首相)の下で実施される次期衆院選で、この3点は既に「過去」になってはいないだろうか。

 菅首相は結局、3点について説明も改善もないまま、「不人気」ゆえに政権維持を断念した。後継候補による総裁選でも、明確な意見表明はほとんどなかった。このまま総選挙で与党が勝利(過半数以上を維持)すれば、再び「全ては支持された」となり、森友・加計問題の公文書改ざんなどが解明される機運は遠のくだろう。しかしこの3点は、日本の政治の方向性を考える上で本質的な問題を含んでいる。首相が代わったからといって見過ごすことはできないし、批判している野党が政権を取った場合、その批判を本当に政策として実現するのか注視が必要なのは言うまでもない(旧民主党政権は、野党時代に主張した「官房機密費の使途公開」を政権獲得後に実現しなかった)。
 政権への批判・不満にも、野党への批判・不満にも、それぞれ理由があるだろう。どちらにも投票できず、棄権を選ぶ有権者が多いことも理解はできる。ただ投票行動とは別に、新型コロナ対策をはじめ現在の政治への疑問や不満は、かつてなく充満しているように感じる。そしてその声が政府や国会に届く道筋も、かつてなく目詰まりしているように感じる。
 「目詰まり=代議制民主主義の不全感」を諦めたり放置したり、あるいはそんな政治に依存したりせず、現実の施策に意見を反映させ得る、選挙と並行する別ルート(バイパス)を考えるべきではないだろうか。デモや陳情など従来の手法を一層有効にする手立ての一方、NPOが大きな政策実現インフラとして前面に出ることはできないだろうか。
 これまでにもNPO法制定過程のロビイングなど実績があるが、より広範な声を集め、巻き込むことができるなら、政策面では政権交代と同様の効果を期待できる。それをどう実現するか。残念ながら今ここで示せる具体策はないが、「政治・政策へのアプローチ=選挙以外のバイパスづくり」は、日本の市民活動の大きな課題だと思う。

V時評【2021年10月・11月号:掲載】
責任を取るということ ――尾瀬ガイド協会の素早い対応に学ぶ

編集委員 筒井 のり子

 ここ数年、「責任」や「謝罪」という言葉に重みが感じられない事象が増えたように感じる。
 森友学園や「桜を見る会」前夜祭問題に対して「責任を痛感」という言葉を連発するが、「責任を取る」ことはしなかった安倍元総理大臣。女性蔑視発言に対する謝罪会見が「逆ギレ、居直り会見」になったオリンピック・パラリンピック組織委員会の森前会長。最近では、テレビの情報番組で共産党に対するデマを述べた八代弁護士の謝罪コメントも、「謝罪になっていない」と視聴者から批判を浴びた。
 あらためて「謝罪」とは、自らの非(罪や過ち)を認めて相手にわびることである。すなわち、「何が問題だったのか」を自らが理解して(あるいは理解する努力をして)、初めて誠実な謝罪となる。また、「責任を取る」とは、自分が関わった事柄から生じた結果に対して責務を引き受けるということである。その覚悟と具体的な行動が伴わないと人々に気持ちは伝わらない。

 不適切発言や不祥事は、何も企業や政治家などに限ったことではない。市民活動界においてもまた、さまざまな問題が発生し、その責任の取り方に疑問が投げかけられることも多い。
 一例を挙げると、フリースクールの草分け的存在として知られているNPO法人東京シューレでは、2016年に提訴された問題(宿泊型フリースクール活動に参加した女性に対する、男性スタッフによる性暴力)について、和解が成立した19年まで一切公表せず、和解後も外部からの説明要求や取材を拒絶してきた。東京シューレが事実関係を認め、被害者への謝罪と今後の再発防止についての文書をホームページに公表したのは20年2月になってからだった。さらに、和解の際に被害女性に対して口外禁止条項を求めたことが判明し、21年6月になって、ようやく理事長の退任が発表された。
 同団体は不登校の捉え方について社会に一石を投じ、フリースクールの発展に大きな功績があるだけに、残念な思いをした関係者も多い。

 そのような中、9月2日にホームページに発表された尾瀬ガイド協会の謝罪文が「素晴らしい」とSNS上で話題になった。「―差別的投稿の経緯・問題点・今後の方針― 当協会公式アカウントによるTwitterにおける多数の差別的投稿に関して」と題する6千字におよぶものであり、@経緯、A問題点、B原因、C今後の取り組み、D関係者の人事、の5項目について記載されている。紙面の関係で内容の詳細は紹介できないが、特筆すべき点を挙げてみたい。
 まず、挙げられるのは、対応の素早さである。不適切投稿との外部指摘からわずか12日後の会長名での発表であり、理事会が適切に機能していることがわかる。
 次に、よくある「不適切な投稿がありました」で終わらせず、投稿内容を具体的に記した上で、その一つひとつがなぜ不適切なのかを説明している点である。
 さらに、原因について、投稿者個人の問題に矮小化せず、「投稿者はもちろん、役員も人権感覚や差別に関する意識が低かった」「SNSについてチェックがなかった」「SNS等の影響等の知識が乏しかった」「協会として危機管理ができていなかった」とし、組織の問題として受け止めていることである。
 その上で、協会として今後の取り組み内容を5点明記。人事としては投稿者の処分だけでなく、会長と専務理事が辞任、また広報に関する新組織設立を記している。

 職場のパワーハラスメント対策が法制化され、20年6月1日から施行されている。中小企業と同じ扱いのNPOには22年4月1日から適用される。あらためて、組織内の人権意識や危機管理体制についての議論が求められている。

V時評【2021年8月・9月号:掲載】
「参加する福祉」発行から40年

編集委員 早瀬 昇

 今年は東日本大震災から10年、ボランティア国際年から20年、ソビエト連邦崩壊から30年、国際障害者年から40年。そして当協会編集の『ボランティア=参加する福祉』発刊からも40年になる。
 同書の発刊は1981年2月。「参加する福祉」のタイトルどおり、人間性豊かな社会の創造は制度的な保障だけでなく、直接的な市民参加との協働によって実現され、制度の改善にもソーシャルアクションを通じた市民参加が不可欠だとし、まさに市民の参加による福祉活動の創造について解説した。2000年までに14回の増刷を重ね、発行部数はのべ2万3200冊に上っている。

 同書はボランティア活動を市民的自由の実践と捉え、運動、参画、活動の3形態で整理。加えてボランティア活動を公私関係の視点から論述している点で画期的な啓発書となった。すなわち「福祉的課題は制度による対応と住民(市民)による対応の双方の対応によって解決され、また解決の道が探られている……これは『公』『私』関係の問題です」(注1)と記している。実際、同書の発行は、政府がボランティア活動推進政策を本格的に始めた時期だった。1973年、旧厚生省は都道府県・指定都市の社会福祉協議会(社協)が設置する「奉仕銀行」(注2)に補助を開始し、75年には市町村社協の「奉仕活動センター」への補助も始めた。
 この動きに対して、「行政の側からの翼賛化」「自助の強調」「制度的官僚制化や専門閉塞化」などの問題が起こりうることを指摘し、市民的自由を守る拠点としてボランティアセンターに言及している。いわく「行政まかせの『依存的な生き方』や、要求したり批判したりするだけの『たかり的な生き方』にはわれわれは反対します」「社会参加は権利であると同時に義務でもあります。それは一方で、自らの、あるいは市民の生活権、教育権や幸福追求権を擁護する活動であるとともに、一方で、地域社会に民主的で人間的な連帯を、自らの手で築こうとする活動だからです。ボランティア・センターは、そういった新しい生き方を追求しようとする市民の社会参加を保障するものとして登場して来ている」(注3)と、その役割を意味づけた。
 そこで、事業資金のすべてを行政に依存せず自主財源づくりに努力する「財政の自前主義」を土台にしつつ、「行政権から独立しつつ、かつ協働していく」ことが大切だとした。

 それから40年。同書発行後の85年に「ボラントピア事業」が始まり、社協ボランティアセンターの充実が進んだ。90年には企業の社会貢献活動が一挙に活発化し、企業と市民活動との連携も進んだ。さらに阪神・淡路大震災でボランティア活動への注目が高まり、NPOの概念が普及するとともに、企業とNPOの民民連携で民間活動としての自主性を高める可能性も広がった。
 一方で、公共的課題の解決に市場原理を活用する新自由主義の政策が広く導入され、介護保険制度や指定管理者制度などを通じて市民活動団体の中にも公共サービスを担う「事業者」が増えてきた。そこでは効率的に事業の成果をあげることが重視され、丁寧な対応が必要な市民参加に力を入れない団体も少なくない。

 同書ではボランティアセンターを「地域民主化」「住民自治」「コミュニティ創造」「主体的力量形成」の四つの面での「拠点」と位置づけた。この4点はセンターの役割であるとともに市民活動自体がもつ意味でもある。地域共生社会構想などでもボランティアへの期待が高まるなか、改めて公私関係を問いつつ、市民の参加でこそ民主的な社会が築けるのだということを確認したい。

(注1)同書35ページ。執筆は岡本榮一元大阪ボランティア協会理事長(現顧問)。
(注2)1962年に徳島県の小松島市社協が開設した「善意銀行」の取り組みが各地に広がる中、旧厚生省は73年に「奉仕銀行」設置の補助を開始。75年に補助対象名を「奉仕活動センター」とし、76年に「ボランティアセンター」に変更した。
(注3)同書271〜272ページ。この部分も岡本元理事長が執筆。

V時評【2021年8月・9月号:掲載】
おかしいものはおかしいと言える社会を目指して

編集委員 永井 美佳

 Twitter、Facebook、YouTubeなどのSNSを使って、個人の意見や主張を発信しやすくなった。自らは発信しなくても、同意や反論のリアクションやコメントは容易にできるし、シェアをして元の意見の拡散協力もしやすい。自分の考えに近い意見を探したり、自分の考えをまとめるのに参考にしたり、といった使い方もできる。ときに意見や主張の相違から「炎上」することがあるが、すみやかに適切に対処できるならば、怖がりすぎることはない。
 大阪ボランティア協会(以下、協会)は、「協会が創造を目指したい市民社会」の一つとして、「世の中の動きで、おかしいものはおかしいと言える社会になること」を明記している(2009年7月発行「第4次将来ビジョン」)。おかしいと言えるという点において、SNSの活用は、協会が目指す市民社会づくりに貢献しているといえるのかもしれない。
 SNSで注視すべき点は、対話が起こりにくいことだ。「向かい合って話し合うこと。また、その話。」(『デジタル大辞泉』)が対話の意味だが、「広義には2人以上の人物間の思考の交流をいい(後略)」(『ブリタニカ国際大百科事典小項目事典』)という説明もある。後者の説明を借りると、SNSはW思考の発信Wはしやすいが、W思考の交流Wには向いていないといえるだろう。対話による思考の交流は、個人の思考を広げ、豊かにする。対話を通じて複数の意見を折り合わせ、合意形成につなげることもできる。個々の対話を組織の意見や主張に発展させれば、「おかしいものはおかしいと言える社会」に近づけるだろう。

 そのために、何ができるだろうか。協会は対話の機会を積極的、かつ定期的につくることを始めてみた。
 きっかけは、昨年度に組織的なメッセージを二つ発表した経験が大きい。一つは、「新型コロナウイルスの影響下での市民活動に関するメッセージ」(2020年4月8日)で、もう一つは、「森会長、二階幹事長の発言に抗議します」という抗議声明(2021年2月10日)だ。いずれも、常任運営委員(理事会から委嘱を受けた、組織運営を担う委員)の「これでいいのか?」という一声が始まりだった。そこからボランティアと事務局が対話し意見や知恵を出し合って、組織の見解といえる文章にまとめ、ホームページに公表するとともにSNSで拡散した。自治体の記者クラブへも情報提供した。時宜にかなった発信だったこともあり、さまざまな媒体でシェアされるなど共感が広がり、またメール等による反響も大きかった。
 この経験を生かして今年6月度から、常任運営委員会で「いま協会が発信すべきオピニオンとは」という対話の時間を設けることとした。委員が気になっていることを毎月持ち寄り、組織的な意見表明の必要性について協議している。

 「おかしいものはおかしいと言える社会」を市民社会の一つの姿とするならば、対話が起きる場や機会を設けることが必要だと実感する。対話は自然発生的には生まれにくい。ゆえに対話が生まれるように働きかけ、経験や思考の訓練を積む機会が必要だ。
 対話の前提として、まず自分の意見を持つこと、特におかしいと思ったことは言葉にすること、安心して発言・発信できる場を担保することがあるだろう。対話にのぞむ姿勢も大切だ。それぞれの意見や主張の趣旨、意図を理解しようとする姿勢、違いは違いとして受け止める姿勢、違いのなかにも理解できるところや歩み寄れそうなところを探す姿勢なども求められるだろう。協会が理想とする市民社会づくりのためにも、組織内外で対話の機会や場をつくり、「対話」を働きかけることを使命としたい。

V時評【2021年6月・7月号:掲載】
「相模原事件」発生から満5年、改めて優生思想について考える

編集委員 牧口 明

 来る7月26日は、日本中の障害者運動、障害福祉関係者等に大きな衝撃を与えた「相模原障害者施設殺傷事件」発生から満5年を迎える日である。この機会に改めて、事件の背後にあるとされた優生思想について考えてみたい。
 もっとも、事件の犯人である植松聖死刑囚の優生思想については、事件後彼に面会取材した新聞記者の文章などを読んでも、その言説に「思想」と呼べるほどの思索のあとを感じることはできなかったことを初めに記しておきたい。
 優生思想については、「遺伝的疾患・形質の発生を予防し、優秀な遺伝子の継承をはかることで社会の進歩を促そうとする思想」といった理解が一般的かと思われるが、この考え方を科学的に基礎づける学問として成立したのが、フランシス・ゴルトンによって定義づけられた優生学である。この優生という言葉は、優性遺伝の「優性」と混同して語られることがよくあるが、全く別の概念である(注)。

 優生思想を根拠づける概念としてよく、「適者生存」とか「弱肉強食」という言葉が用いられ、それらがダーウィン以来の進化論と結びつけて語られるが、それはダーウィンによって基礎づけられ発展してきた現在の進化論に対する誤解によるものである。
 ダーウィン進化論の基本は「自然選択(自然淘汰)によって生物が進化する」という点にあるが、この「進化」という用語は「進歩」を意味するものではなく、単に「世代を超えて伝わる変化」ということである。
 ダーウィンは、それまでキリスト教の創造論によって否定されてきた「生物が変化(進化)する」ということを客観的事実に基づいて論証し、進化は生物が「環境の変化に適応することによって」起こり、その適応は「自然選択による」ことを明らかにしたとされる。

 ここで大切なのは、「環境の変化に対する適応」は多くの人が考えているような生物の優劣や強さ弱さによって起こるのではないということである。よく言われる適者生存の適者も、何が適性とされるかは環境の変化が起こってからでないと分からないので、「強い者」「賢い者」など、通常プラス価値とされている形質を持っている者が必ずしも適者となるわけではないということなのだ。
 古生物学者のラウプは、「生物種は多くの場合、運がわるくて絶滅する」と述べているが、このことは、進化の過程で?強い°ー竜が滅び?弱い¥ャ動物や細菌が生き残ったことを考えれば理解できるはずだ。
 今日の進化生物学では、優生思想の根幹をなす優秀な遺伝子というものはなく、「ある特定の環境において有効であるかもしれない遺伝子がある(だけ)」とされる。
 最近のゲノム科学や分子生物学の理論研究によって、もし環境の変化に対応できる生物の性質があるとすれば、それは、「多様で、かつ現在の環境下では生存率の向上にあまり貢献していない?今は役に立たない∴笂`的変異を多くもつこと」だとも言われる。
 詰まるところ、「適者生存」という言葉を生み出したラマルクの進化論に影響されてスペンサーが唱えた社会ダーウィニズムの「弱肉強食」や「優勝劣敗」などの考え方は、今日の進化生物学では完全に否定されていると言ってよい。
 仮に優生思想家たちが夢想する「優秀な遺伝子を受け継いだ者たちだけで構成されるハイレベルな社会」が実現したとして、その社会でもやはり、「よりできの良い」人間とその対極に位置する人間が生まれるに違いない。そして、そこで「劣った者」と判断されたものは排除されるであろう。  そのように考えると、優生思想は結局、どこまでいっても構成員の一定数を「生きていてはいけない者」として抹殺し続ける思想だと言えるのではないだろうか。そのような思想に立脚した社会は多くの人を幸せにすることができるのだろうか。私は、たいへん疑問に思う。

 (注)日本遺伝学会は2017年より、優性を「顕性」、劣性を「潜性」という表現に変更することを決定した。

 本稿執筆に当たっては、精神科医で西九州大学教授の黒田研二先生と、障害福祉が専門で優生思想に詳しい日本福祉大学准教授の藤井渉先生に貴重なご助言をいただきました。記して感謝申し上げます。

V時評【2021年6月・7月号:掲載】
「まちづくり」というボランティア活動

編集委員 神野 武美

 NHKアナウンサーを辞めた近江友里恵さんが大手不動産会社に就職し、「街づくり」の仕事をするという。不動産会社や行政が行う都市開発事業や都市計画、災害復興に伴う土木工事も「街をつくる」仕事だが、町並み景観や古民家の保存・活用を目指す市民ボランティアによる「まちづくり」活動も全国津々浦々で展開されている。私の所属する公益社団法人奈良まちづくりセンター(NMC)もその一つ。NMCなど「奈良町」で活動する11のまちづくり団体で実行委員会をつくり、今年11月12、13日に奈良市などと共催で、全国各地の町並み保存活動団体が集う、第44回全国町並みゼミ奈良大会を予定している。

 奈良町のまちづくり団体は多種多様だ。例えば、「なべかつ」や「てんかつ」(いずれも略称)は、奈良女子大前の旧鍋屋交番や東大寺転害門(国宝)前の元銀行支店のレトロな建物を拠点にイベントや来訪者への町案内を行い、「京終文殊」は、奈良町南部の話題や伝統行事を載せた「京終ニュース」(隔月刊)を発行し、ほぼ毎月「京終さろん」という講演会を開く。「なら・町家研究会」は、建築の専門家として町家の調査研究や修復・活用の相談に乗る。いずれも歴史的景観や伝統的な生活文化を守るために立ち上がった一般市民、建築家、自治体職員などの活動である。
 江戸時代に「鹿柵」で囲まれていた奈良市の旧市街は「奈良町」と呼ばれ、今も300余りの「町」(自治会)で構成されている(注)。1985年の奈良市教育委員会の調査では、町家は3259件あったが、2020年のNMC、なら・町家研究会の調査では1285件と35年間で61%も減少した。町家の持ち主が亡くなり遺産相続で売却されたり、所有者の転居で空き家になったりした跡地にマンションが建ったケースも少なくない。町家が無くなるということは、書画や古文書などの収蔵物が散逸し、担い手を失った伝統行事が衰退するということを意味する。奈良市は、町家の保存に助成金を出しているが、建物や土地はしょせん、「私有財産」である。ただ、町家が取り壊されマンションや商業施設になれば、「町並み」という公共空間としての価値が棄損され、その不動産価値は将来的に下がるという矛盾を抱える。

 とは言っても、近年は町家ブームである。京都や奈良では町家を改造してゲストハウスや外来者の別荘や仕事場にする動きも活発だ。町家の保全活用への効果が期待できるものの、行き過ぎれば、購買力のある富裕層や外国人向けの事業者に町全体が支配されてしまう。つまり、外部資金の流入は不動産価格の上昇を招き、元からの住民は去り、町家の外観は保たれても、テーマパークのような、底の浅い「商業空間」になりかねないからだ。
 「奈良町」の魅力は、町家や寺社、小さいが個性的な生業の店が混在する風情のある町並みであり、集会所と祠堂(神社や仏堂)をセットにした「会所」のある「町」も少なくない。町家は減っても、町々は、江戸時代以来の住民同士のつながりを保ち、地蔵盆、観音講、春日講、庚申講などの伝統行事が営々と続けられ独特の生活文化を醸し出している。文化庁、自治体、民間財団などの助成を得る場合もあるが、まちづくり団体の多くは「手弁当」の活動である。さまざまな矛盾を抱え一筋縄でいかない現実に、あの手この手で粘り強く立ち向かうのがまちづくりボランティアの真骨頂である。

 (注)江戸時代の「奈良町」は、春日大社の神鹿が周辺の農業地帯に出て作物を荒らさないよう周囲に鹿柵があり、自治単位としての「町」はおおむね数十世帯からなる。

V時評【2021年4月・5月号:掲載】
ボランティア活動の多様な展開 ――コロナ禍におけるアメリカの実相

法政大学大学院連帯社会インスティテュート教授 柏木 宏

 感染者3000万人、死者50万人。人口が3億を超えるとはいえ、アメリカのコロナ禍がとてつもない状況に陥っていることを示す数字だ。社会経済活動が大きく制約され、人々の生活は厳しさを増し、支援の必要性が高まっている。とはいえ、「ソーシャルディスタンス」が求められるなかで、ボランティア活動も抑制せざるをえないのではないか。こう思う人が少なくないだろう。

 「助けが必要になれば、支援の輪も広がることを実感した」
 こう語るのは、首都ワシントンをポトマック川で隔てたバージニア州アレクサンドリアに住む、アンバー・マーチャンドさんだ。
 全米で新型コロナウイルスの感染が拡大していた昨年6月、食べ物に不自由している人がいることを知ったアンバーさんは、夫のステーリングさんとともに、自宅の前に非生鮮食品を寄付してもらうために箱を置いた。近所の人々や友人からの寄付により、箱はすぐに満杯になった。普通なら、これをフードバンクに持ち込んだだけで終えただろう。しかし、マーチャンド夫妻は違った。
 いくつかのNPOに連絡を取ったところ、首都ワシントンのマーシャズ・テーブルというNPOに、ホームレスの人々に配るサンドイッチが不足しているといわれた。その数250個。3歳から9歳までの子ども4人を抱える夫妻は、このニーズに応えるため、税制優遇の資格をもつNPOを設立。今年3月まで、毎週1500個のサンドイッチを届けている。  アメリカで食料支援のNPOといえば、フードバンクが真っ先に頭に浮かぶ。マーチャンド夫妻の活動が示すように、コロナ禍で食料難になった人は少なくない。フードバンクへのニーズも急増した。しかし、ウイルスへの感染を恐れ、ボランティア活動を控える人が続出。各地のフードバンクは、ボランティア不足に陥った。
 この事態に手を差し伸べたのが、退役軍人を中心にした12万人のボランティアを擁する、チーム・ルビコンだ。昨年5月、全米のフードバンクの連合体、フィーディング・アメリカと連携して、各地のフードバンクの倉庫の管理運営に加え、食品や食事の配送のための活動に取り組むことになった。
 チーム・ルビコンのボランティアは、ワクチン接種の活動にも関わり始めた。今年2月、大学などで学ぶ退役軍人のNPO、アメリカ退役軍人学生会(会員75万人)など五つの退役軍人団体とともに、ワクチン接種退役軍人連盟を設立。ワクチンの配送や管理などの業務を担い、コロナ禍に見舞われた地域社会の再建に向けた支援を進めている。
 ボランティアというと、無償性や利他性が強調されがちだ。これらの「原則」は重視しつつも、有形無形の対価を受ける「利己性」を限定的に盛り込むことも少なくない。ワクチン接種に関連したボランティア活動に対する、カリフォルニア州の動きは、そのひとつといえよう。
 「私の順番」というプログラムで、ワクチン接種に関連したボランティア活動に4時間以上従事すると、優先的に接種を受けることができる。接種会場での活動だけではなく、ワクチンに関する啓発活動や接種希望者への予約の手助けなども含まれる。

 この他にも、さまざまな活動がある。個人用防護具(PPE)や食事を病院に送る活動はいうまでもない。ペンシルベニア州のハバフォード大学の学生は、医療従事者の子弟に、無償の家庭教師となって勉強の手助けをする活動を実施。こうした活動の多様性が、コロナ禍にあってボランティア活動の意義と役割を高めているといえよう。

V時評【2021年4月・5月号:掲載】
コロナ禍と「ヘイト」 日本社会に潜む危険

編集委員 増田 宏幸

 新型コロナウイルス感染症は、社会が内包するさまざまな矛盾や課題をあぶり出したと言われる。米国でアジア系の人々に対するヘイトクライム(憎悪犯罪)が多発しているとの報道が増えており、路上で頭を蹴られる女性の映像や、アフリカ系の男女グループに襲われて肩を骨折した日本人ジャズピアニストのニュースを目にした人も多いのではなかろうか。
 ヘイトクライムの背景として、アジア系移民を排斥した米国史、コロナ禍による経済状況の悪化と社会の閉塞感、トランプ前大統領がコロナウイルスを「中国ウイルス」と呼び続けた影響――などが指摘されている。アジア系米国人はコロナ禍の中でも、アフリカ系、ヒスパニック系に比べて失業率が低いとの統計もある。コロナ禍がもたらす大きなストレスが、すり込まれた情報や経済格差を引き金として特定の層への攻撃に短絡するということだろう。欧米のコロナ感染者数、死者数は日本と段違いに多く、ロックダウンなど外出制限も厳しい。飲食店の時短営業が主の日本とはストレスの度合いが違うが、その日本でも形を変えたヘイトクライムは起こり得る。

 4月10日、千葉県警が公務執行妨害容疑で34歳の男性を逮捕した。男性はマスクを着けずに飲食店に入ろうとして店側が拒否し、駆けつけた警察官を殴った疑いが持たれている。この男性は2020年9月、飛行機内でのマスク着用を拒否して客室乗務員らとトラブルになり、今年1月に威力業務妨害容疑などで逮捕(その後起訴、釈放)された。報道によると、東京や長野でも同様のトラブルを起こしていたという。
 この男性について「変なやつ」「特殊な事例」というのは簡単だ。その場に居合わせたら正直、「マスクを着ければいいのに。いいかげんにしてくれよ」と思っただろう。一連の言動が事実なら、あえて挑発的な態度を取っている可能性もある。しかし一方で、咳もなく会話もしないなら、本人の感染リスクは別として「マスクをしなくて良い」という考えが成り立つかもしれない。咳やくしゃみの突発を思えば着用がベターとはいえるが、マスクがいわば「人間の証明」のようになることについては意識的であるべきだろう。
 この男性の例がそのままヘイトクライムに直結するとは思わないが、ヘイトクライムとレッテル貼りとの関係を考えると見過ごせない要素がある。いわゆる「自粛警察」はヘイトクライムの変形だと思うし、罰則と補償ではなく良識に期待する対策は、法律で割り切れない分、個人の受け止め方による攻撃を誘発しやすい。マスク着用も、1年前に比べて一層「常識」になっている。病気やその他の理由で着用できない人もいるはずだが、その人たちは外出できず息を殺しているのだろうか。コロナと対策への「慣れ」を自戒しないと、他者への想像力を欠いた一面的、短絡的思考に陥り、それがヘイトクライムに結びつく可能性は決して杞憂ではないと思う。

 今年に入って2本のヤクザ映画を見た。それぞれにテイストは違うものの、主人公は刑務所を出たヤクザで、出所後の居場所がない。法の下の平等というが、実際には法だけでなく、社会生活のあらゆる場面で不平等がある。これは新聞記者として筆者が現実に知ったことでもある。「社会の規範」から外れた――とみなされた人を再びどう受け入れるのか。入れ墨をした人、マスクをしない人、生きるために飲食店の営業を続ける人。それぞれに理由があるはずだが、ひとたび「規範外の人」としてバッシングを受けると、日本は極めて生きにくい社会になる。誰もが生きやすい社会をつくり、少なくともヘイトクライムを防ぐにはどうすればいいのか。答えは簡単に見つからないが、コロナ後も見据えて考え続けたい。

V時評【2021年2月・3月号:掲載】
―マレーシア発― 国境というハードル

編集委員 磯辺 康子

 「移動の自由」について考えさせられた1年だった。国境というもののハードルの高さをこれほど感じたのは初めてだった。
 マレーシアのクアラルンプールに住んで約2年。昨年は新型コロナウイルス感染症の拡大で生活が一変した。2020年3月、マレーシア政府は罰則付きの活動制限令(いわゆるロックダウン)を施行した。生活必需品の買い出しは許されたが、散歩さえ禁止される厳しい移動制限だった。ジョギングや野鳥観察で拘束された日本人もいた。その後、5〜6月ごろから制限が緩和され、少しずつ日常生活が戻っていくかに見えた。  しかし、見通しは甘かった。年が明けた21年1月、マレーシアでも感染者が急増し、ほぼ全土で厳しい活動制限令が復活した。前年のロックダウンに比べ経済活動の規制は緩やかだが、外出に関する厳しいルールがあり、州をまたぐ移動は禁止された。
 昨年3月以降、感染状況によって変化はあるが、何らかの移動制限が続いている。中でもマレーシア政府が一貫して維持しているのが、事実上の国境閉鎖だ。

 今年1月、「日本のパスポートは世界最強」いうニュースがあった。イギリスの調査会社の発表で、日本はビザ(査証)を持たずに渡航できる国・地域数が191と最も多く、4年連続の首位となった。
 こういうパスポートを持つ日本人にとって、国境というハードルは比較的低い。コロナ前≠ヘ気軽に海外旅行に出かけ、企業やNGOの活動でも海外との往来を頻繁に繰り返すことができた。
 しかし、それは「いつでも国境を越えられる」という前提があっての日常だ。その前提が崩れると、仕事や生活、さらには精神面での負担がどっと押し寄せてくる。
 私の場合、自国である日本に帰ることは難しくない。ただ、この原稿を書いている時点では、入国時にコロナの陰性証明書が必要で、2週間の自主隔離をしなければならない。入国後は公共交通機関を使えない規制のため、すぐに自宅に戻ることは困難で、自主隔離の場所を確保する必要もある。
 最大の問題は、一度マレーシアを出国すると、戻ることが難しい点だ。この国で働ける長期ビザを持っていても、再入国にはさまざまな手続きが必要で、制度は頻繁に変わる。入国後は強制隔離期間もある。昨年3月から、多くの外国人が休暇中も一時帰国せず、マレーシアにとどまり続けている。

 この1年、各国で活動していたボランティアやNGO職員の中には、日本に戻らざるを得なかった人も多い。医療体制が脆弱な国では、とどまることが命にかかわる。企業人や留学生もそうだ。多くの人が外国人という立場の不安定さと、享受してきた移動の自由の重みを実感したのではないか。
 私自身、政治的な背景や経済的事情で自国に戻れない人の負担がどれほど深刻か、よく考えるようになった。オンラインでの連絡が容易になり、いざとなれば自国への航空券が比較的簡単に買える日本人でさえ、「自由に帰れない」というプレッシャーが積み重なると、体調を崩す人が少なくない。日本国内でも移動自粛という事態が多かれ少なかれ精神的負担になっているはずだ。
 外国人に対し、「嫌なら自分の国へ帰ればいい」と言う人がいる。しかし、日々の仕事があり、生活の基盤を築いた場所から移動するのは簡単ではない。国へ帰ることは、生活の糧を失うことに直結する。自国の情勢が不安定な場合は、なおさら帰れない。
 この1年を肯定的に捉えれば、感染症と関係なく移動の自由を奪われてきた人々の困難に目を向ける機会だった。自由に行き交い、人と触れ合う貴重さも身に染みた。日本で暮らす外国人が抱く不安を、頭でなく心で理解する時間を与えられたと感じている。

V時評T【2020年12月・2021年1月号:掲載】
丁寧に議論し助け合える広場と協働を作ろう

大阪ボランティア協会 ボランタリズム研究所 所長 岡本 仁宏

 アメリカ大統領選挙であらわになった社会の分裂は、他人事ではない。日本でも、SNS(ツイッターやフェイスブック等)、ブログや動画サイトでの投稿の激しい攻撃性は日常化している。
 実は、分裂社会がネットで表現されているのか、ネットが分裂を強化しているかはっきりしない。エコーチェンバー(反響室)とかフィルターバブルとか言われるように、仲間内の世界に閉じこもり分裂や攻撃性を高める傾向もあるとはいえ、むしろ強く極端な意見を持つ人がネットを使って頻繁に発信する傾向も強い。ちなみに、若者よりも中高年の方が極端な意見の頻繁な発信を行っている。

 攻撃的な言説は、丁寧な議論をする穏健な人々を委縮させ発信を控えさせる。問題そのものに丁寧に向き合おうとして意見を出すことが困難になる。
 トランプ現象の背後には、衰退する製造業で働いていた白人中高年労働者の貧困化があるともいわれる。彼らの「絶望死」、つまり自殺やアルコール・薬物中毒等による死が増えている。日本でも、不安定雇用や新型コロナ不況によってあらわになった貧困化、確実な高齢化や人口減少、原子力発電所、中国の権威主義・大国主義等への対処について、議論が深まっているとはとても言えない。
 ネットでの過激な議論は、直面すべき困難な問題についての真摯な議論を妨げている。

 市民社会は、分裂した社会や公論の場を再建できるだろうか。
 市場は、本来、対立を越えて機能する。企業は対立を越えて顧客を得たい。国家は、本来、対立を制度の枠にはめて公共の仕事を行う仕組みだ。民主的な選挙と裁判とで紛争解決を図り、社会の基盤を整え共通の仕事を行う。市場も国家も対立の原因を作るが、対立そのものを作るわけではない。対立をあおって儲ける商売や対立をあおって権力を獲得維持することもあるが、それは一部にすぎない。
 あえていえば、実は、@自由な公論やA自発的な非営利集団の世界である市民社会こそが、激しい対立を育み激化させているのではないか。世界的に見れば、市民社会の重要な構成員である宗教団体や信仰は大きな紛争の種になってもいる。陰謀論やフェイク情報を広げ過激な政治活動を行う政治団体や政治言説も、市民社会の要素である。ネット世論も世論である以上、市民の自由な言論活動の一部である。
 他方、忘れてはいけないが、ネットは市民の「不可能」を可能にした。行政情報や統計情報、法令や審議会の情報、最先端の意見や情報の共有と拡散コストは劇的に低下した。少し前まで分厚い『六法全書』がなければ法律すら読めなかったが、今は、ググれば一発だ。ネットは、市民がこの世界を知り世界に発信し世界を作っていく巨大なツールでもある。
 しかし、市民はまだこのツールに振り回され、社会的困難に立ち向かう市民社会の質を作り出せていない。

 インターネット革命の下で、改めて市民社会とは何かが問われている。
 このような時にあってこそ、具体的な困難の解決のための相互扶助や情報交換、匿名でない信頼できる意見表明の場を形成し、さらにともに行動できる提案が必要ではないか。そんな地道でしかも楽しめる実践が、ネット上でも対面でも重要だ。  もちろん、容易ではない。ネットでは「荒らし」「スパム」のような有害情報が飛び交っている。偉そうな意見を垂れたい過激で暇なおじさんたちも待っている。だから、丁寧な広場のメンテが必要だ。
 大多数の人々は、ネトウヨでも極左でもない地道で真摯な生活者である。今一度、具体的な問題や課題に基づく協働の取り組みという、NPOや非営利社会活動の意味を確認し、ネット社会にふさわしい市民社会のバージョンアップを図ることが必要なのではないか。

V時評U【2020年12月・2021年1月号:掲載】
「田吾作」と「忠臣」と政治の劣化

編集委員 神野 武美

 菅内閣が2020年9月16日に誕生した。驚いたのは、閣僚のうち東京都や神奈川県選出の議員が7人と3分の1を占めたことである。そのうち菅首相ら4人が、筆者が生まれた神奈川県である。高度成長期の1970年代は、自民党は農村に強く、都市部は、社会党など「革新」が強く、主要都市の横浜、川崎、藤沢、鎌倉は革新自治体であった。保守系議員も、日中国交回復に尽力した藤山愛一郎、新自由クラブを立ち上げ自民党総裁にもなった河野洋平、自民に復党せず進歩党を結成した田川誠一、議長として参院改革に取り組んだ河野謙三と、気骨ある政治家を輩出していた。「安倍一強体制」に従順だった閣僚4人とはかなり印象が違う人たちだ。

 70年代に活躍した政治学者、松下圭一(法政大学名誉教授、1929〜2015)は、地方分権や「シビル・ミニマム」(都市の生活基盤整備の政策公準)を唱えた。彼は、工業の拡大は勤労者に「余暇と教養」をもたらし、「市民的自発性の大量成熟」を育てて、「民主主義を内発的に組織できる文化水準に」到達すると展望した。日本人の政治的人間型の、権力に従順で無知な「田吾作」(庶民)と出世志向の強い「忠臣」(官僚や企業戦士)たちが、「余暇と教養」を得て「市民」に生まれ変わると考えた(『都市政策を考える』1971年)。背景に、大都市への集中に伴う環境の悪化(日照権など)や公害問題に立ち上がった住民運動や市民運動の隆盛があった。
 万年与党・野党の「55年体制」では、70年の「公害国会」のように野党や市民運動が高度成長のひずみや公害問題を追及し、与党がそれを受け止め、公害対策の強化など政策を転換することもあった。

 しかし、松下が展望した民主主義は、2000年前後の地方分権改革や情報公開法施行まではある程度進化したが、安倍政権下では「政治の劣化」が目立った。ジャーナリスト江川紹子は、そうした状況を「社会から『熟考』がなくなった」と指摘する。安倍政治の反対派も含めて、社会自体が「敵か味方か」「善か悪か」の二項対立の思考に陥り、「カルト化」したというのである(毎日新聞2020年9月24日付「安倍政権が残したもの」)。
 筆者が考える原因は何か。経済のグローバル化で日本の優位性が失われ、生活を支えてきた農業協同組合、労働組合、地域社会などの「共同体」が衰退した。その影響で、個人が「自己責任」を求められ、「競争至上主義」や「拝金主義」がはびこり、企業幹部の不正や悪質な搾取が横行するなど社会全体のモラルが低下した。さらに、欲望を刺激する広告や宣伝の影響力が情報化によって強まり過剰な消費文化が社会を支配した。そんな人々の心理に「わかりやすい」偏狭な宗教やイデオロギー、差別意識が入り込む――である。

 「民主的な変革を志す人たち」が、社会の実働部隊である「田吾作」や「忠臣」と対話して来なかったことも一因だろう。ムラの伝統には「道普請」などの共同作業があり、地方の零細建設業者の多くはその延長上に位置する。土建国家≠フ一翼であっても、彼らは災害を防ぎ、雇用を生み出す役割を担ってきた。企業人や官僚も、「忖度」「ヒラメ」人間ばかりではなく、公正な社会への貢献を使命と考える者も少なくない。
 松下は、市民の自発性に基づく「政策型思考」に期待したが、それは江川が言う「本当は複雑で熟考を要する事柄」にほかならない。社会の矛盾の中で暮らす人々に寄り添い、その多面性を理解し、彼らの思いや知恵を引き出すことができる。そうすることでようやく「政策」を育むことができるのではなかろうか。(敬称略)

V時評T【2020年10月・11月号:掲載】
オンライン化における障害者の参加の質

編集委員 筒井 のり子

 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、この半年で日本社会では一気にオンライン化が進んだ。企業はもちろんのこと、行政やNPOにおいてもオンラインでの会議や研修が一般化しつつある。大学においては、前期中はほぼ対面授業は行われず、オンラインなどの遠隔授業が展開された。後期の授業形態についても、文科省が9月15日に発表した調査結果によると、全国の国公私立大学(短大含む)と高等専門学校(計1060校)の約8割が、対面授業とオンライン授業の併用を考えているという(注1)。
 徐々に感染状況が落ち着きを見せ始めているとはいうものの、いつまた拡大に転ずるかは予測がつかず、大人数での集まりや密な接触は引き続き慎重にならざるを得ない。また、仮にコロナの影響が非常に弱まったとしても、この「オンライン化」の流れが元に戻るとは考えにくい。
 オンラインの授業や会議に慣れていなかった多くの人にとって、当初は通信環境や技術面でかなりのストレスがあったと推察されるが、始めてみれば「意外と使える」「可能性が広がった(遠方の人との会議など)」とプラス面も実感しているのではないだろうか。

 そのような中、気になるのは、障害のある人たちの参加の質である。例えば、オンラインによる授業やセミナー等において、聴覚や視覚に障害のある参加者への配慮が主催者によってどの程度なされているのか。また少人数でのオンライン会議の場合も、参加者同士でどのような配慮や協力体制が意識されているのだろうか。
 株式会社ミライロ(ユニバーサルデザインを推進)が大学向けに5月に実施した「障害のある学生への授業環境整備」に関するアンケート(注2)では、すべての大学(35大学)が、オンライン授業において、障害のある学生への対応に「課題を感じている」または「課題を把握できていない」と回答。特に聴覚障害のある学生への対応に課題を感じているとのことだった。
 では、障害のある学生自身は、オンライン授業についてどのように受け止めているのだろうか。筆者が勤務する大学が障害のある学生に対して6月に実施した「オンライン授業に関する調査」(注3)によれば、むしろ肯定的に捉えている学生が多かった。例えば、通学の負担軽減(車いす利用者など)、学内の騒音や雑音からの解放(発達障害の学生など)、体調に合わせた受講が可能、繰り返し視聴し理解度が向上、といった点が挙げられている。少なくともこの調査では、オンライン授業は情報伝達や情報収集における社会的障壁を軽減したと言える。

 ただし、それは通信環境や情報保障(UDトークなど音声を可視化するアプリケーションの導入、遠隔ノートテイクなど)がある程度担保されていることが前提である。大学の場合は、比較的そうした整備が進められつつあるが、社会全体ではどうだろうか。
 市民活動団体もオンラインでのセミナーやミーティングを主催することが今後ますます増加すると思われるが、字幕対応や遠隔手話などの知識や技術を学んでおく必要があるだろう。
 また、根本的に重要なのは、ミーティングにおけるファシリテーション力であろう。障害の有無に関わりなくであるが、取り残される人がないよう、発言しやすい雰囲気づくりやわかりやすい資料の提示、チャットの有効活用など、オンラインを前提とした会議の組み立てが必要となる。コロナ禍を契機に、ユニバーサルデザインを意識したミーティングが広がっていくことが期待される。

(注1)「大学等における後期等の授業の実施方針等に関する調査」(2020年8月25日〜9月11日)
(注2)https://www.mirairo.co.jp/information/post-20200602-0
(注3)龍谷大学「障がいのある学生のオンライン授業受講状況調査」(2020年6月5日〜6月11日)

V時評U【2020年10・11月号:掲載】
市民の自由を守る確かな意志示そう

編集委員 増田 宏幸

 高支持率でスタートした菅義偉(よしひで)新政権だが、日本学術会議の会員任命で6人を推薦名簿から外し、しかも頑としてその理由を説明しないことに批判と疑念が強まっている(10月中旬現在)。市民活動に関わる者として感じるのは「ひとごとではない」という懸念と不安であり、そこにはうっすらと恐怖感さえ伴う。
 菅氏は自民党総裁選中、政権が決めた政策の方向性に反対する省庁幹部は「異動してもらう」とも明言した。人事権を盾に、安倍政権以上に露骨な官僚統制を宣言したことになる。この状況を官僚機構や自治体からみれば、一層「忖度(そんたく)せよ」と言われているに等しい。理由が判然としなければ、推測するしかない。その推測は不必要なまでに拡大されるだろう。現状でさえ行政管理施設での「護憲集会」といった催しが不許可になるケースがある。安倍・菅政権を経て「市民的自由はこうして死んでいくのか」と暗然とせざるを得ない。

 統制色を強める一方、それによって菅氏が何を目指しているのかは見えてこない。総裁選中から携帯電話料金値下げなどミクロの政策はあっても、大きな理念=経綸(けいりん)は語っていない印象だ。そこで改めて、そもそも菅氏が総裁候補として急浮上した過程を振り返りたい。筆者が感じる「怖さ」の中には、菅氏を支持した派閥・国会議員たちの定見や自省に欠ける振る舞いも含まれている。
 菅氏は官房長官としておなじみだったとはいえ、出馬表明もなく、胸に蔵す政権構想も全く明らかでなかった段階で、二階・麻生・竹下・石原各派と、安倍氏が所属する細田派は大挙して「安倍継承」を既成事実化した。党総裁選とはいえ、実質的には総理大臣を選ぶ選挙だ。国会議員は国民の代表であり、「首相を選ぶ」ことについて彼らはしっかり考え、役割を果たしたと言えるだろうか。見過ごせない1点目がここにある。
 次に、菅氏本人の意向はともかく、麻生・細田・竹下3派が開いた支持表明の記者会見がある。筆者にとって、この記者会見は驚くべき光景だった。会見の背景にはいろいろな見方があるが、少なくともあらわになったのは、かつては「裏」または「暗闘」だった派閥の利益や既得権が、「国民には分かるまい」とばかりに丸出しになったことだ。筆者には「とことんなめとるな」という感想しか浮かばない。腹も立つが、むしろその無頓着さが恐ろしい。

 安倍政権の負の側面は、集団的自衛権行使を閣議だけで容認してしまったことをはじめ、熟議を軽視した国会運営、公文書の恣意(しい)的な扱いなど多数ある。その点への自省・反省が見られない新政権では、むしろ政策決定の不透明さ、説明の回避(拒否)、明示されない忖度の勧奨がさらに強まるかもしれない。
 NPO法第2条には法人の要件として「政治上の主義を推進し、支持し、又(また)はこれに反対することを主たる目的とするものでないこと」といった政治関連の項目がある。
 普通に読めば、あるNPO法人が政府の施策に反対したとしても、政治上の主義の推進や反対を「主たる目的」にしていなければ問題はないだろう。しかし学術会議の事例を見ると、そうとも言い切れない。6人の除外の経過や理由は不明で、「総合的、俯瞰(ふかん)的な活動を確保する観点から判断した」というのみだ。先のNPO法人が「欠格」として認証を取り消されても、「総合的、俯瞰的」というだけでは検証のしようもない。まして異議に耳を傾けない政権であれば、市民の側はどう対抗すれば良いのだろうか。
 与党は高支持率を背景に、年内にも解散・総選挙に打って出るとの観測がある。忖度の広がりで市民の自由が窒息死しないために、健全な社会を失って後悔しないために、一票の使い方を含め確固たる意志を示したい。

V時評T【2020年8月・9月号:掲載】
「感染者参加OK」の活動でWITHコロナを乗り切ろう

編集委員 早瀬 昇

 コロナ禍のなか、さまざまな形での「自粛」が要請されている。現場の調整なしに発せられた突然の学校休校要請に始まり、緊急事態宣言時には人々が集う多くの施設で休業が求められ、最近も多人数での宴会などはもとより、豪雨被災地に他県ボランティアが出向くことも「自粛」が求められている。
 この「自粛」とは「自分から進んで、行いや態度を慎むこと」(大辞泉)。英語ではvoluntary restraintである。あくまでも自主的に判断した上でとる振る舞いだ。
 ところが、この自主的であるはずの行動を、政府や自治体が積極的に要請≠オている。ただし義務ではない建前だから、休業などに伴う保障はせず、わずかな協力金や支援金でお茶を濁すだけ。事業者や個人が自主的に$ヤ字を負担し、あるいは行動を抑制することになる。

 さらに「自粛警察」と呼ばれる人々が、嫌がらせなどで強引な「自粛」強要を行う事例も頻発した。実はこの「自粛警察」の活動も、一種の市民活動ではある。しかし、対話の努力をせず一方的に、かつ多くは匿名で自らの正義を押し付ける。これでは、今年2・3月号の本欄で解説した『ボランティアとファシズム』(注1)を想起させる、きわめて偏狭な活動だと言わざるを得ない。
 もっとも、このような事態が起こる背景には、新型コロナウイルスの不気味な特性がある。感染しているのに、まったく症状が出ない人も多く、しかも感染力はある。しかし、息苦しさや倦怠感、高熱などの明確な感染症状が出るか、「濃厚接触」状態にあった人が感染者と判明しない限り、PCR検査をしないのが政府の方針。そこで多くの無症状感染者が、感染者としての自覚のないまま感染を広げる事態となっている。その上、PCR検査を受けても一定の割合で偽陰性者が出るから、安心できない。
 無症状の感染者が、すぐ近くにいるかもしれない。この不安から「自粛警察」に走る人々も出てしまう。

 この状況下で私たちが主体的に対応するには、どうすれば良いだろうか。無症状だけれど自分は感染者かもしれないと考え、周囲への感染拡大を抑えるよう振る舞うことは大前提だ。人前でのマスク着用やフィジカルディスタンス(注2)をとることは基本となる。
 こうした基本所作に加えて、自身も感染者かもしれないと考えつつ、その上で、できることに果敢に挑戦することが大切だろう。ストレスが免疫力低下をもたらすことはよく知られているが、逆にさまざまな活動に挑戦し、自らが役に立てていることを実感すれば、自己肯定感が高まり、免疫力の向上にもつながる。
 実際、すでに多くの感染者もできる♀動が生み出されている。それぞれの自宅でのマスクやフェースガードづくりは多くの地域で実践されている。「密」を避けにくい子ども食堂が無料の食材提供を行うフードパントリーを展開している。厳しい状況下にある子どものための学習塾がオンラインでの学習支援を進めている。豊中市社協はユーチューブを利用した健康体操や折り紙講座などを開講し、大阪大学の学生サークルと吹田市社協が連携して高齢者への手紙を介した交流が行われた。コミュニティサービス神戸の調整で地域の居場所が電話での10分ふれあいコール活動に取り組み、日本クリニクラウン協会がオンライン訪問で長期入院児の気持ちを癒やしている。この他、各種の調査活動やSNSでの情報提供や情報共有、募金の呼びかけや政策提言……。実に多くの活動が進められている。
 自分たちで考え、工夫し、突破口を見出し、そのノウハウを広く共有し合う。口角泡を飛ばし合う対面の話し合いなどは、しばらく「自粛」しつつも、できることはたくさんあるのだ。

(注1)サブタイトルは「自発性と社会貢献の近現代史」。池田浩士著、人文書院、2019年刊。
(注2)ソーシャルディスタンスは特定集団排除の意味があり、ソーシャルディスタンスシングなら感染予防戦略の意味になるが、人と人とのつながりは保ち続けるべきということで、WHOも推奨している表現。本来の用語はフィジカルディスタンシング。

V時評U【2020年8・9月号:掲載】
知らず知らずのうちに、参加の機会を奪っていないか

編集委員 永井 美佳

 ボランティアが参加する会議でのよくある話をしよう。新規企画の意見交換で盛り上がり、方向性が出たところで「今日の議論を受けて企画書のたたき台を誰か担当しませんか?」と議長。誰の手も挙がらず、重苦しい沈黙が……。
 この沈黙にあなたなら何秒間耐えられるだろうか。心中で迷いながら周りの様子をうかがう。ここで「やりましょうか」と誰かが名乗り出てくれると、安堵の空気が流れて緊張が解かれる。
 さて、このような場面で、あなたが有給の事務局職員(以下、職員)だった場合は、どのように対応するだろうか。職員としての責任感で引き受けるか、適任そうな人に見当をつけて「やっていただけませんか」と指名するか。あるいは、ボランティアの自発性を促すような働きかけもできるだろう。

 大阪ボランティア協会(以下、協会)の事業推進においても、よくある光景だ。役割は、企画書作成に限らず、議事次第や議事録作成、原稿執筆などさまざまである。
 ボランティアとの協働経験の少ない職員だと、役割分担のよいあんばいに戸惑うことは多い。筆者は「よかれと思って職員がやりすぎてはいけない。手を出しすぎることは、ボランティアの参加や活躍の機会を奪うことになるからね。じっくりと構えて待つことも取り入れてみて」と伝えるようにしている。職員がやりすぎないのと同時に、抱え込まないことも大事だ。何より、ボランティア一人ひとりのものの見方や考え方と向き合うことが、その人らしい役割と参加の機会を創出するきっかけとなるのだ。

 先日、ある生活協同組合の組合員活動をサポートする部署から、「参加者の主体的な関わりを引き出す支援のあり方」というテーマで、職員に話をさせてもらう機会を得た。研修担当者の問題意識はこうだ。「生協の組合員活動は基本的に事務局が配置されていて、事前準備から資料作成まで丁寧な支援が行われているが、ともすれば『お膳立て』『構いすぎ』になりがちだ。そのことが『よい事務局』という誤解も少なからずある。参加者の主体的な関わりを引き出すことが事務局の仕事であることを共有したい」
 どこからがお膳立てや構いすぎになるのか、明確な基準があるわけではない。職員のかかわり方は、グループメンバーの経験や力量によっても変化する。たとえば、事務力の高い人材の有無や、アイデア出しが得意なのか、実働が得意なのかなど構成員の強みによって職員のかかわり方は変化するものだ。

 そもそも、事務局の仕事の範囲を決めるのであれば、ボランティアと職員がそれぞれ担う業務や作業の範囲を協議したり、点検したりするプロセスが必要であろう。協会では、「職員とボランティアの協働と役割分担」について、以下の11の点検項目で、定期的に協議することを推奨している(注)。

@事業の企画立案、実施、進行管理
A準備会議や例会の案内、進行、記録など
B企画から実施・進行に伴う、準備、運営バックアップ、事務、当日フォロー
Cイベント等実施後のアンケート集計や当日の記録などの事務
Dメンバーの意欲や協働案を高め、活動を活性化するような働きかけ
E事業全体を見渡しながらの全体的なファシリテート
F新メンバーのリクルート&個別オリエンテーション
G事業によっては、チームメンバーが持つつながり(専門家や関係団体)の強化、マスコミとの調整、地域関係構築・渉外のような役割
Hチーム事業の発信や報告(SNSやブログ等)
I参加システムの促進、他事業からの誘いあい
J会議室や会場の予約、調整等

 ボランティアの参加や活躍の機会を創出することは、別の言い方をすると、ボランティアの潜在的な力の開発ともいえる。ボランティアと協働する機会のある職員は、これまでの自身のかかわり方を点検・再考する一助になればと願う。

(注)「アソシエーターの手引き」アクションガイドブックより。11項目で点検する役割は、経理実務や個人情報の管理など職員が担う方がよい事項は除く。

V時評T【2020年6月・7月号:掲載】
ヤングケアラー支援について考える

編集委員 牧口 明

 18歳未満で(注)児童福祉法の対象でありながら、家族の介護のために学業をはじめ、学校生活全般に支障を来しているヤングケアラーと呼ばれる子どもたちの問題がここ数年、学校関係者や医療、福祉関係者などの間で関心を持たれるようになってきた。2010年に設立された日本ケアラー連盟などが中心となって、実態調査や支援活動もおこなわれてきた。
 このヤングケアラーが実際にどの程度存在しているのかを、総務省が17年度におこなった「就業構造基本調査」を基に、15〜19歳の年齢層について毎日新聞が独自に集計した結果が去る3月22日に報道された(5月5日続報掲載)。
 それによると、「15〜19歳の介護者は3万7100人。その約8割が通学しながら介護をして」おり、介護の頻度は週に4日以上が1万2700人と、週に1〜3日の9800人や月に3日以内の7200人を上回ることなどが分かった。
 また、昨年3月に三菱UFJリサーチ&コンサルティングが発表した「ヤングケアラーの実態に関する調査研究報告書」(以下三菱UFJ調査報告、表記は原文通り)によると、実際に担っているケアの中味としては「きょうだいの世話」が最も多く、「(買物に始まり、調理、食事介助、後片付けに至る)食事の世話」「掃除、洗濯などの家事」などが続き、「衣服の着脱介助、移動介助」なども3割に上る。これらは、他の幾つかの調査でもほぼ同傾向の結果が出ている。
 このようなヤングケアラーについて指摘されているのが、「提出書類などの忘れ物が多い」「宿題をしてこない」「部活に入っていないなど友だちとの関わりが薄い」「遅刻・早退・欠席が多い」等々の学校生活上の問題であり、それはまた不登校などの問題にも結び付く。
 さらに、近年「子どもの貧困」が社会的に注目されているが、ヤングケアラー家庭の3割は生活保護を受給しており、ヤングケアラーの問題はこの問題ともリンクしている。
 ヤングケアラーの問題にいち早く取り組んだイギリスでは80年代末から精力的に支援策が講じられてきたが、日本でも近年、専門家・関係者の間でさまざまな支援のあり方が検討され、一部は実施されている。その土台となっているのは当事者からの聴き取りや、当事者自身による語りである。  先の三菱UFJ調査報告では、「誰にも相談できない、自分の話を聞いてもらえない、気が抜ける場所がない」「中学までの担任には母親の症状について説明をしていたが、特に(略)困りごとなどをきいてくれる様子はなく、周囲に話はできないと思った」「とにかく卒業できるまで頑張ろうという気持ちで、卒業後のことは全く考えられなかった。当時はしんどいと思うより、自分がやらなければ暮らしていけないという思いで他に選択肢がなかった」などの当事者の声が紹介されている。
 このような声に応えるためには、「当事者がケアについて安心して話せる場所(ケアラーズ・カフェなど)を創る」「(公的サービスにつなげることで)ヤングケアラーが担う介護負担を減らしていく」「親も含めての支援を図るなかで子どもの学習権を守る」といった取り組みとともに、この問題に関する行政責任を明確化し、行政として対応すべき責任を果たしつつ民間の支援活動をも支える根拠となる法律の制定も求められる。
 ヤングケアラー支援に当たっては、年齢の変化によって支援が途切れることなく継続的にサポートできる「縦のネットワーク」と、さまざまな関係機関や団体の縦割りの支援を超える「横のネットワーク」の構築が必要とも言われる(成蹊大学・澁谷智子准教授)。私たちにも、そのネットワークの一端を担うことが求められている。

(注)ヤングケアラーの年齢定義は必ずしも定まってはいないが、この問題の先進国イギリスでは「18歳未満」としており、日本でもこの定義が多くの関係者に受け入れられている。

V時評U【2020年6・7月号:掲載】
賭博と肺病―ムラ社会を描いた映画を思い出した

編集委員 神野 武美

 黒川東京高検検事長(当時)が新聞記者らと賭け麻雀をした問題が報じられ、ふと昔に見た映画を思い出した。タイトルはひどい差別語なので伏せるが、1957年の渋谷実監督の松竹作品で、内容は「とてもまともと思えないムラ社会の悲喜劇」である。
 東京近郊の某農村。有力者の権力は絶対で集落のおきては国の法律より優先することさえある。取り巻き連中と日常的に賭博に興じる有力者と土地の問題で対立した男が「村八分」にされる。男の娘が肺病で死んでも、村人は一人も葬儀に来ない。娘と恋仲で東京から一時帰郷した有力者の次男は「ほとほとこの村に愛想がつきた。もう戻って来るつもりはない。自分と一緒に村を出ないか」と男を誘う。男は「ここを捨てたとて、日本中どこでもおなじ」と、この村で生きる決意をする。「賭博」と、新型コロナウイルスが引き起こす「肺炎」が、この映画を思い出すきっかけになったようだ。

 約37年間記者をしてきた筆者から見ると、賭博はともかく、寝る間も惜しんで夜回りや朝駆けをして警察や検察の幹部、政治家に食い入りリーク(情報漏えい)してもらうのが仕事と思っている記者は少なくない。政治家や高級役人をヨイショすることもいとわない人たちが、特に事件取材では報道というムラ社会の主流を占めているのが実態だ。
 83年4月に神奈川県で情報公開条例が制定されて以後、当時、新聞社系週刊誌の記者だった筆者は、役所から情報を得る手段として情報公開請求を使い始めた。むろん情報源としては不十分である。そこでさまざまな市民団体や公務員、学者の研究団体の集会などに出向き、法令も調べるなどして情報収集した。情報公開制度外でも、建設業許可申請書や政治資金収支報告書などは法律で閲覧が可能である。それらを「ブツ読み」(地検特捜部の捜査手法と同じ)し、現場の取材を加えて1面や社会面トップの記事も書けたのである。

 近年、「文春砲」などと呼ばれ週刊誌がスクープを連発し、新聞やテレビが後塵を拝すことが多いが、新聞やテレビでも情報公開に取り組む記者が増えてきた。法的に保障された「情報公開請求権」を行使して、「不開示」や「不存在」の決定に対し、審査請求して情報公開審査会や裁判所で正々堂々闘えるのである。開示された公文書が真っ黒な「ノリ弁」であれば、記事で「こんな情報でも隠すのだ」と書けるのである。デジタル情報を活用して「脱記者クラブ」的な取材をする記者も増えているようである。
 だが、こうしたやり方は今も「本流」とは言えない。この件も、新聞社自体が、記者の高級役人との賭け麻雀を「取材源の秘匿」の対象とし取材の一環と認めた。少し前になるが、某自治体首長が「5兆円の借金」という財政難を理由に教育・文化系事業の予算を削ったことがある。情報公開請求で入手した資料を使って1年分の元利償還額と金利を計算してみると、政府系からの利息は年利約2・3%、銀行系は1・5%。中には年利8・1%のものもあった。銀行に借り換えれば、単純計算で80億円は捻出でき、補助金カットも避けられるはずである。しかし、記者クラブの記者が情報公開請求した形跡はなかった。本来ならば、「5兆円の借金」の中身を検証し政策上の問題点を明らかにすべきだと思うが、政治家や高級役人を金魚のフンのように付け回し、もっぱら「政局」を追うのが仕事という認識の記者が多いように見える。

 しかし、コロナ禍は、こうしたマスコミ界の常識≠ノ変化をもたらすかもしれない。医療体制のあり方、失業の増大防止、企業への支援策など真剣な政策論議の必要性がクローズアップされてきたからである。そのためにも、政策形成過程の情報公開を徹底させるという機運を高める必要がある。

V時評T【2020年4月・5月号:掲載】
コロナ危機――俯瞰的な視点から考える

編集委員 増田 宏幸

 「新型コロナウイルス」には飽き飽きしている向きも多いだろうし、以下は日本の現状から遠くてピンと来ないかもしれない。それでも意識しておきたい事柄として取り上げたい。
 4月11日深夜、NHKのEテレで「ETV特集『緊急対談 パンデミックが変える世界〜海外の知性が語る展望〜』」なる番組があった。各国の歴史学者、政治学者、思想家がパソコン画面を通してキャスターとやりとりする構成で、それぞれ深い洞察を基に、新型コロナウイルスが突きつける歴史的、社会的、政治的、哲学的な意味合いや、ウイルスがあぶり出す社会矛盾、課題を語った。個人的にとりわけ印象に残ったのが、イスラエルの歴史学者で「サピエンス全史」の著者でもあるユヴァル・ノア・ハラリ氏から発せられた「コロナ独裁」という言葉だった。
 コロナ独裁とは、端的に言えば「感染爆発(あるいはその恐れ)を背景(理由)に、危機を乗り越えるという大義名分の下、政府(指導者)が絶対的な権限を一手に握ること」と言えるだろう。

 既に各種報道があるが、典型的な例はハンガリーのオルバン首相だ。報道によれば「新型ウイルス対策として、3月11日に首相が現行法の効力を停止できる非常事態を宣言し、学校閉鎖などの措置を取っている。非常事態の継続は(中略)無期限に引き延ばせることになった。(議会が可決した法案には)新型ウイルスの感染防止策を妨害するような『フェイク(偽)ニュース』を流した場合、最大5年の禁錮刑を科す条項も盛り込まれた。政権を批判するメディアを抑え込む目的があるとみられる」(毎日新聞4月6日付朝刊)という。
 日本はどうだろう。安倍政権の対策は4月中旬時点ではむしろ後手に回っており、経済的ダメージの膨張を恐れるせいか、緊急事態宣言の発出にも慎重だった。外出禁止も強制ではなく、独裁とは遠い現状に見える。ではなぜ「コロナ独裁」という言葉に耳目をそばだててしまうのか。それは、必ずしも日本に無関係とは言えないからだ。
 以前にも本欄で書いたが、独裁と、メディア統制やNGO・NPO=市民の自由な活動の統制・排除は双子の関係にある。独裁政権は情報を独占し、市民・国民の判断材料を奪うことによって成り立つ。市民活動は社会や制度の不備・矛盾をさらけ出し、容易に政権批判に転じる存在だから認めない。中国で人権派弁護士の拘束、ハンガリーで海外から資金援助を受けるNGOを排除する動きがあったのも、結局は政権に批判の矛先が向かうことを恐れているからだ。

 日本では政府の対策に「遅い」という声がある。旧民主党政権を「決められない政治」と罵った現政権だが、その批判が自らに跳ね返っているようにも見える。ただ、注意しなければいけない。政権・政策への失望が深まると、新たな「決められる政治」「強いリーダー」を待望する心理、空気が醸成される可能性がある。海外の独裁的政権は、そうした危機バネで統制を強化している。日本でも感染防止のため「強制力のある外出禁止措置が必要」という論が広く見られた。現状にいらだつあまり、自ら求めて強い措置、強い政権を無批判に受け入れてしまうことだってあり得る。
 現にコロナ危機のさなかにも、自民党は憲法改正推進本部の会合を開いた。危機を背景に「憲法改正で目指す『緊急事態条項』明記の意義をアピールし、停滞する国会での改憲論議を加速させたい考え」(同4月11日朝刊)とみられている。当否は別に、危機を利用する動きは常にある。さしたる議論もなく賛成してしまえば、それが独裁的政治への出発点になるかもしれない。危機にあって感染防止は最優先だが、そこにのみ焦点を当ててしまうと見過ごすものが出てくるだろう。
 日本には戦争に勝つため政府・軍部に全権委任し、進んで、あるいは同調圧力の下で「国民一丸」、協力した歴史がある。それは自由を失う過程でもあった。どんな危機の中でも同じ轍を踏まないため、俯瞰する視点を忘れずにいたい。

V時評U【2020年4・5月号:掲載】
みんなが、当事者。自粛だけでなく、困難打開の努力も!

編集委員 早瀬 昇

 新型コロナウイルスが世界中で猛威をふるっている。感染しても症状が出ない人も少なくなく、症状のない間も感染を広げてしまう。すべての人が自分も感染者かもしれないという意識で行動しなければならない。
 確実な予防策は人と接しないことだと外出自粛が要請され、イベントや講座、集会などが軒並み中止されている。人々の交流が抑制される事態が進行し、集い、語り合い、触れ合うことが活動の核となる市民活動にも大きな影響を及ぼしている。
 その上、自粛という自主的な行動抑制を強く期待され、前号本欄で紹介した『ボランティアとファシズム』にも似た、抑圧的状況が生まれかねない懸念もある。政策批判も含む自由な意見交換は、より良い政策を民主的に生み出す不可欠の条件だ。指示に従うだけの思考停止に陥ることなく、多様な意見を出し合える自由を守らなければならない。

 一方、この事態に対処するための人々の懸命の「自助」努力が、「共助」を崩す事態も広がった。買いだめだ。
 災害時は、まず自らを守る行動が基本とされる。しかし、それが限られた資源の奪い合いになると、結果的にそれぞれの暮らしを苦しめる。トイレットペーパーはメーカーに大量の在庫があるものの、かさ高いことなどから配送量を急に増やすことが難しく、急激な購買量の増加を前に、本稿執筆時(注1)でも品薄状態が続く。
 しかも、残念ながら日本人は「身内」には心優しいが、見知らぬ人には冷たいという調査がある。
 「先月、あなたは、困っている見知らぬ人の手助けをしましたか?」という質問に「はい」と答えた割合が、経済開発協力機構(OECD)加盟国中、日本は最下位の22・7%だった(1位はカナダ66・0%、2位アメリカ65・5%)(注2)。「共助」自体も、私たちは狭い範囲に限られがちな傾向があるということになる。
 50年以上前に中根千枝・東大名誉教授が『タテ社会の人間関係〜単一社会の理論』で喝破したように、「ウチ−ソト」の意識が強い日本人は、ソトとみなす人々への心遣いが弱い傾向があるようだ。

 しかし、このウイルスは「ウチ−ソト」という線引きを簡単に乗り越え、置かれた環境によりリスクに差はあるものの、私たちを分け隔てなく襲ってくる。
 入国制限どころか帰省の抑制も言われるなど、人の交流を極力抑える対応も取られている。しかし、感染のスピードは抑えられても、当面は感染が広がり続けることになるだろう。もう「ウチ」も「ソト」もないのだ。
 しかも、私たちは否応なく自分自身の暮らし方を変えることが求められる。みんな、ウイルス問題の「当事者」だ。誰かに解決を託すのではなく、それぞれができることに取り組んでいくことで、この事態を乗り越えていくしかない。

 「不要不急」の行事を延期し、会議や講座のオンライン化を進めるなど、活動を抑制したり対面する機会を減らしたりして、これ以上の感染拡大を抑制することも大切だ。
 その一方で、この人類史的な事態に立ち向かう取り組みを進めることは「必要火急」なことだろう。自粛要請の広がりの中でも、情報を共有し合い、自身で判断し行動できる可能性を探っていきたい。
 実際、外出しなくてもできることは少なくない。感染予防に関する情報の収集と整理・発信、窮状にある市民団体などへの寄付や周囲への募金の呼びかけ、応援している人たちへの電話やメール、手紙などでの安否確認や声かけ、オンラインでのさまざまな活動への参加、状況改善に向けた政策提言など、できることはたくさんある。NPOなども在宅でできるボランティアプログラム開発に努力することが大切だ。
 自粛だけではなく、この困難を打開する努力を進めていきたい。

(注1)2020年4月13日。 (注2)「OECD Factbook 2009」から。なお、10年以降、この質問は調査に加えられなくなっている。

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